はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

声の衰えは

 妻と二人でカラオケに行きました。酒も飲まずに歌えるかと以前は思っていたのですが、することがないまま昼間のカラオケに行くといい部屋が空いていたりするのです。二人ですから頼み放題、次々に番が回ってきますのでいろいろ歌えます。というわけで実は何度も夫婦カラオケをしているのです。

 私は客観的に考えれば歌はうまくありません。音程は取れる方ですが、なんというか味がない。情緒を込めることができないのです。それでも譜面通りには歌えるということで自己満足していました。ところが、今日はそれも怪しいことを痛感してしまいました。どうも音程が取れない。

 先ほど小田和正さんがテレビに出ていてその美声を披露していました。今年、御年70になられるとか。あの高音の美声が衰えないのは不思議です。でもインタビューに答える声はさすがに若者のそれとは大きく異なりました。歌声を保つには訓練が必要なのでしょう。歳相応の声ではなく、若かりし声を出すためにはそれなりの発声法が必要だということになります。

 素人の私にはその心得も覚悟もないので、久しぶりにマイクを持ってみると自分が聞いても情けない声しか出ません。声は衰えるもの、それを保つには覚悟がいることがいることを痛感したというわけです。

つぼみ

 近隣の公園に散歩に行ったところ家族連れでにぎわっていました。この連休は気温が上がって、曇天ながら快適な日が続いています。おそらくここ数日の陽気で桜も成長が進んだらしく、樹上にはたくさんのつぼみが見られました。まだ固いつぼみです。

 予報によれば今週中にも開花が始まり、その後すぐに見ごろになるのであるとか。花期の短い桜なればこその期待と不安は伝統的な感性の一つです。

 この公園は近々一部が工事に入ると聞いていますが、できれば林のたたずまいを残してほしいと思います。遊具や施設はいらないので、樹木と向き合える空間が欲しいのです。都会の人々にとって、たとえ手が入ったものであっても土や木とのふれあいが大切なのは言うまでもありません。

花粉症

 暖かくなって花粉症が本格的に表れるようになりました。私の場合は早春の今の時期が最も症状が重くなり、4月中旬ごろに落ち着きます。ここ数年は対策薬を服用することによって軽減することができています。ただ問題なのはのどが渇いたり集中力が落ちたりすることです。高価な薬の中にはそれらを克服したものもあると聞きますが、あまりこれに散財したくないと思う気持ちもあって、結局いつも副作用との戦いになっています。これも季節の風物詩と考えることにしたいと思います。

東大の国語

 今年の東京大学の国語の前期試験に関する説明を受けてきました。大手予備校が高校の教員向けに行う研究会という名のセミナーで、毎年この時期に行われるものです。予備校としてはいかに早く、正確に問題を分析できているかを示す目的もあるものです。同種のセミナーを渡り歩くと、予備校によって答えが少しずつ違うことがあり、国語という科目の特性が現れます。

 さて、今回の説明によると現代文の問題は最初の問題では初めて過去に出題された問題文の筆者の文章が再度出題されたようです。また、時代風潮に乗っ取った内容の文章が選ばれるという伝統的な傾向があるのも確かで、試験の行われる前年の出来事が出題文の選択に影響を与えているらしいのです。こういうのは後付けの説明なので受験生にはあまり意味はありませんが。

 東大の国語の特徴は比較的小さな二行枠に解答を書かせる記述型問題ですが、今回もこの問題ではいかに適切な大きさの字で書くかがカギになりそうです。ある年から一行の枠には2行以上書くなという但し書きが入ったとかで、小さな文字でたくさん書くことで字数の束縛から逃れようとする受験生には待ったをかけたいようです。60字から70字程度で解答を書く練習をするのがよいということが分かりました。

 古典分野に関しても説明がありましたが、古文は源氏物語から出題されたため難易度が上がり、漢文はやや易化したとのことですが、いずれも王道を行く出題であり、特別なことをするというより、いかに読みと答え方の精度を高めるかが合格の条件ということになります。

 東大の国語はそれ自体はいまの国語教育の成果を測るためには適した形をしているといえます。本文の内容を把握し、それを要約する力を中心とした読解問題が大半であり、こうした訓練を積んだ人が評価される問題になっています。

 一方で自分なりの問題意識を述べたり、それを論理的に述べたりする力については測れません。このあたりがどう変わっていくのかも注目したいと思います。

学問へのアクセス

 昨今の教育界にとって多少気になることは、新しい評価基準を推奨したいがために従来の方法を全否定する向きがあることです。

 確かに知識偏重の教育スタイルは様々な弊害を生み出しているともいえます。でも、一方で日本型教育は教養の平均的水準を上げ、維持してきたという功績があるのは事実です。

 日本の制度が上手く機能しないのは、教授法の問題だけではなく、学ぶ側の要求度合いの低下による要因もあります。せっぱ詰まった学問へのアクセスがないまま、教室に向かっても吸収できることは少ない。

 海外の大学に行った学生が大学の授業を絶賛するとき、それに感心するとともに、なぜ同じことを日本でもやらないのかと考えるのです。講義を聴いた後にそれを検証し質問するということはできるはずなのに。

 私が学生の時にもそういう熱心な人はいました。確かに彼は変人のようにも考えられていましたが、話してみると純粋にその分野のことが好きだっただけのようでした。

 制度だけではなく、学問の必要性を実感させることが、日本の教育には必要なのだと感じるのです。この態度を育成するのが中等教育の役目なのかも知れません。

賞状

 短歌と俳句のコンテストに応募した作品がどういう訳かどちらも佳作のようなものに選ばれて賞状をいただくことになりました。賞状をいただくのは実に久しぶり(もしかしたら小学校以来かも)のことなので嬉しく感じます。

 褒めてもらうことは活力源に為ることが多く、これは大切なことであると思います。そのためにも、時には周りの人を褒めることも大事であると感じた次第です。

 さて、いただいた賞状ですが、額縁に入れて飾ることも考えたのですが、止めておきます。また次を狙って作品作りをしていきたいと思います。

クラーナハ展

f:id:letswalk:20170312142659j:plain
 先日、大阪の国立国際美術館で開催中のクラーナハ展を観てきました。クラーナハは16世紀のドイツ地域で活躍した画家です。宮廷画家として名を上げた彼は、その人生の間にルターの宗教改革を経験する過渡期の芸術家と言えます。
 ルネサンスの影響を受けた画法は最初は王侯貴族の肖像画に使われます。次第に対象の内面を描く作品が描かれるようになっていきます。特に女性の魅力と誘惑蠱惑する心理の絵画化は注目すべきです。絵画の中に人間の性を描き出した訳です。
 実は多くの芸術家がクラーナハの影響を受けていることが分かりました。彼がアトリエで絵画の大量生産をしていたことも分かりました。いい展覧会でありお勧めです。