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はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

反応

 対話型の授業を進める際にもっとも苦労するのが生徒側の反応が予測不可能であることです。ある程度想定して準備はするものの、全く反応がなかったり、逆に段取りを飛ばして話が進んだりすることが多く、そのつど対応を変える必要があるのです。

 このタイプの授業をするときには伝えるポイントを絞って、あまり欲張らないことが大事です。脱線、停滞は当たり前なので伝えることを限定してそこへの誘導を目標に進めます。それで時間的心理的余裕ができ、生徒に考える時間を確保できるのです。

 自分のペースだけでは進まないけれども、あくまで教員のイニシアチブは保つのがこのやり方の課題であり、毎回がそのための試行錯誤になるのが厄介であり、面白くもあるのです。

花散らし

 今朝は曇天で、未明に降った雨で路面が濡れています。風が強く満開を迎えた桜を容赦なく揺さぶっています。まだ開ききっていないのかそれほど花びらは舞いません。せめてこの時だけはと、古人と同じ思いになるのです。

 桜は農業神の宿る木というのが民俗学の成果です。1年の収穫を占うこともあったかも知れません。農事からほど遠い私でさえ桜の状態が気になり、それに様々な因果関係を見出そうとするのは心理的伝承の流れの中にある証なのでしょう。

 教員にとっては入学式や始業式は元旦のようなものです。忙中閑あり。花にしばし癒やされ、また今後を考えることも大事にしたいと思います。

程よい愛国心

 隣国の状況を見ていると愛国心は時に全体を惑わせるものであると実感します。むしろそれを利用して権力の具とするものの存在を感じてなりません。日本は敗戦によりナショナリズムが表面的には優先されなくなり、かなり屈折した形になっていると感じます。明らかな差別的発言であるヘイトスピーチは問題外ですが、少しずつ蓄積されつつある無根拠の排他的な感情も気になって仕方ありません。

 それと同様に存在するのが日本の在り方への全否定的な感覚です。従来の蓄積を時代遅れのものとして否定しきる若者の考え方に触れるたびに残念な気持ちになります。おそらく高度高齢社会の弊害を体感しているのでしょう。

 大切なのは程よい愛国心を持つことでしょう。これは教えるものなのか。感じ取るものなのか。常に迷うのです。

変わらぬ桜


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 南町田駅前のロータリーが完成してバス停に並ぶ人の列ができるなど風景が変わりました。かつての駅前のシンボルだった楠は枝葉を落とされて移植されましたが、養生のための莚が施されたままの痛々しい姿です。

 工事区域からわずかに外れたところにある桜はそのまま手つかずであったため、今年も満開直前の時を迎えています。もちろん桜自体が成長しており昨年のままではありませんが、桜花には1年の経過を痛感させる何かがあります。

 子どもの頃に見上げた桜、喜びや悲しみ、悔しさ、つらさの気持ちの中での桜、新環境に震えたことも、狂乱の花見も。さまざまな心情が桜の風景とともに想起されるのです。

 おそらくこの駅前の一株も将来何らかの感覚とともに記憶の一つに組み込まれていくのだと思います。町の変化は避けられませんが、変わらぬ風景はそんな意味で必要です。

環境が変わっても

 新しい学校、クラス、職場などにこの4月から飛び込むという人も多いでしょう。環境の変化は時に勇気を求められることもあるかも知れません。人によってはそれがストレスとなり、心と身体にストップをかけてしまうこともあります。

 こういう時には少し大きなものの考え方が必要です。それまで馴染んでいた環境が唯一絶対であると思うのは、それ以外を知らないからです。新しい世界に触れた後、再び過去を振り返れば必ずしもそれだけがすべてではなかったことに気づくはずです。

 少し後の自分の姿を想像し、視野を広げること。現在が世界のすべてではなく、あくまでドラマの中の一場面であることを忘れてはならないと思います。

 もう一歩が踏み出せない人には是非このことを考えてほしい。これは自分への言葉でもあります。

シダの芽

 駅の土手に今年もシダ類の芽が生えだしました。この形には不思議な生命力を感じます。


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 マオリ族はここに霊威を感じたようでこの形が図案化されたものがあります。おそらく日本でもさまざまな感情とともに受け入れられてきたはずです。

 山菜に似たものがありますが、あれも食用だけではなく、生命力それ自体の摂取が意識されていたと考えます。ちなみに写真のものは食用にはなりませんのであしからず。

貧困と学力

 大阪府が小中学生に対して行った調査によると、貧困と学力には相関関係がある可能性があります。読売新聞が報じていました。調査によると学校の勉強が「わからない」と答えた児童・生徒は親の収入による区分の貧困層の場合は27.6%で、最上位層の12.9%の倍以上です。このほかにも朝食を食べない割合や勉強時間が少ない割合において顕著な差があり、経済状態が学習環境を悪化させ、それが習熟度に影響を与えていることが推察されます。

 他方、東大に合格する生徒の親の年収が平均するとかなり高いことは以前から知られています。学費の高い私立高校に通わせたり、学習塾や家庭教師の補習を受けたりするなどの付加的教育も与えられている恵まれた環境の生徒が難関大学に入ります。その人たちは高収入所得者になる可能性が高く、自分と同じかそれ以上の教育への投資を自分の子供にさせることになるわけです。

 学習状況が社会的な成功に大きく関与することを考えれば、貧困の再生産がおきる可能性を示しているといえます。あるいはすでに発生しているともいえます。親の経済状態が子に影響することは現実としては仕方がないという一面もあります。ただ、学習の機会をはじめから奪うようなルールは社会の停滞を生み、結果的にはその社会全体の損失につながります。環境が悪くても学習意欲を失わせない何らかの仕組みが必要かもしれません。

 学校そのものの仕組みを変えていく必要もありますが、教育に投資する者の意欲をそぐような改革は無意味です。つまり単に平等にするというのでは逆効果でしょう。大切なのは学びたいと思わせる気持ちを醸成することと、学びたいが経済的理由で学べない子供たちをいかに救済するかです。放課後の教室や、公共施設の会議室などを地域が貸し切り、退職教員などが担当する補習ボランティアのようなものがあればと思うのです。会場費や教材費は寄付と低く抑えた受益者の負担で賄います。私もそういう機会があれば手を挙げたいと考えています。