脱線する授業
学際的総合的な学問のあり方が必要であるという文章を読ませた上で、具体的にどのような可能性が考えられるかを生徒に問うてみました。多くの生徒は分からないと沈黙し、一向に進みません。ある生徒がタイムマシンを造り、歴史学の知識を使って過去の事件を解決するという案を出しました。荒唐無稽ながら、話の方向性はあっています。精神安定の手法を心理学から学び、それを映像か何かと連動させて戦争を防ぐために役立てるという案が出ました。悪用が懸念される方法ですが、とりあえず意見を出したことを褒めると、私と同じことを考えた生徒がマインドコントロールに使われそうでよくないと言い出しました。するとそれなら、そういうことをしない、させないような研究をという声が上がります。
脱線を続ける授業ですが、それなりに意味はあるのではないかと思うのです。
優しさのあり方
先日の朝、駅前のタクシー乗り場を通りかかった時、年配の方から声をかけられました。病院までタクシーに乗りたいのだが、呼んでくれないかというものです。乗り場にタクシー会社の電話番号が書いてあるのを見つけたので、それを教えてさしあげると、携帯電話を持っていない、それに頭が悪いので電話がかけられないというのです。
少し前の私であればこの意味は理解できなかったと思います。脳に何らかの障害があるとひらがなや数字といった抽象度の高い記号が理解できなくなるということを家族の症例から知っている今はこのご老輩のおっしゃる意味を理解することができました。
考えてみれば、この駅前には自動改札化されて駅員はおらず、交番もなく、公衆電話もない。携帯電話を持たない人にとっては頼るべきものがなさすぎるのです。いや、電話を持っていたとしても気休め程度にしかならない。極めて不親切な空間になっています。
本当の便利さとは何か、優しさとは何かを考えたまちづくりが必要ではないかと痛感しています。
夜桜
昨夜の桜。満開を少し過ぎた桜と、満月を少し過ぎた月が小雨にも負けず共演していました。