はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

こどもの視点

 私が入学した小学校を先日訪ねてみました。さすがに校門の中に入りませんでしたが、懐かしさを通り越して不思議な感じがしたものです。

 じつはこの小学校は坂の上にあるのですが、記憶ではそれほど急ではなかったはずなのに、この時はかなりの急坂に感じました。また近くにかかる歩道橋はもっと大きかったはずなのにとてもこじんまりとしている。

 こどもの時の記憶はかくもあいまいなのですが、それはおそらくその視点とも関係があるかもしれない。そう思って当時の身長辺りまでかがんでみるとなるほどもっと大きく見えるような気がしたのです。一方坂道の方はひょっとして体力の変化が関係しているのでしょうか。

戦闘機

 このところ戦闘機が訓練飛行することが増えてきた気がします。結構な爆音がするので実は少々迷惑しています。極東の国際情勢は近年ではもっとも不安定な状況にあるといえると思います。それに連動しているのでしょうか。

 私たちが今の生活を享受できるのは平和あってこそです。それを守るための手段とあらばある程度は仕方がないのかもしれません。しかし、肝心なのは外交の力を発揮することです。安易に兵器が利用されることがないよう願います。

暴走抑止装置

 このところ高齢者の運転ミスによる惨事が相次いでいます。自動車の運転は高次元の判断を要することであり、高齢化とともにそれに対応できなるのは残念ながら宿命といえます。それならば免許に定年制を設ければよいという意見もあるようですが、高齢運転者の多くは趣味というよりは生活のために運転しているのであって、移動の手段を奪うことはさまざまな問題を発生させます。

 この問題を解決するためには、なによりも高齢者が運転しなくてもよい環境を作ることがよいと考えます。コミュニティバスやタクシーなどが今まで以上に発達すれば、運転しなくてもいい人が増えます。実際に地方都市に行くと買い物や通院のためにバスを使う人の姿をよく見かけます。ただ、これにも限界があります。運営コストをいかに抑えるかが当面の課題ですが、必要な時間帯に走っていなかったり車両が旧型で高齢者の乗車に適していなかったりする問題があります。

 どうしても運転が必要な人もいます。特に介護を要する人が移動の手段にする場合は、公共の乗り物の利用が難しく、老いた家族が老いた要介護者を乗せるというケースが多くみられます。老老介護の問題はこれから多くの人が直面する問題です。このような場合、運転は必要に迫られて行っているのです。

 AIが果たす役割に関してはシンギュラリティの問題として一種の恐怖感とともに語られることも増えてきましたが、自動車の自動運転に関しては期待するところがあります。高齢者でも安心して乗れる、そして事故を起こさない自動運転車ができれば、毎日のように起きている悲劇を防ぐことができるかもしれません。

 その一歩手前でも、たとえば自動車に「シニアモード」なる設定ができる機能を付け、最高速度を制限したり、音声による警告や自動制動などを付加することは比較的実現しやすいのではないでしょうか。車体に高齢者マークをつけることは行われていますが、車自体を高齢者モードにしてしまうということを提案します。スイッチで切り替えられるようにすれば、これからの時代需要があるのではないでしょうか。

 私自身もいつまで運転できるかと思うと不安になることがあります。その意味で運転しなくてもいい社会ができるとよいと思います。

連休谷間

 ゴールデンウイークなどという名前を付けられても実際になくなるのは金だけというなんとも皮肉屋な気分に落ちている私です。今日は連休谷間で仕事もあり、そこそこに忙しい一日になりそうです。

 気が付いてみれば家にいるより、職場にいる方が気持ち的に楽であることが多い。これは立派な仕事中毒だと自認しているわけです。連休谷間の今日は職場でむしろ楽しいことをしてやろうなどと考えています。

自信を失わせないこと

 慶應義塾大学の外山理沙子氏らの研究「負のピア効果 ―クラスメイトの学力が高くなると生徒の学力は下がるのか?―」を読んで考えたことを書いておきます。この研究は成績の高い集団に入った方が成績は上がるという近年常識化してきている考え方に異論を唱えるものでした。埼玉県の小中学生を調査すると、設定条件下では統計上は成績は上がらず、むしろ下がるという結果が出たというのです。

 統計的な精査は私の能力を超えていますのでとりあえず論に従って考えてみます。ただ、この調査には単なるテストの成績だけではなく、本人の家庭環境や学校の環境、教員の質なども考慮されているようなので、検討の価値は大いにあると感じました。

 我々は子供により良き学習環境を求めるために、試験の難しい学校を受験させます。そして、合格しさえすれば質の高いクラスメイトと切磋琢磨してその能力をさらに伸ばすことができると考えています。しかし、これが統計上はそうも言えないということになります。

 また、習熟度別クラス編成は効果を生まず、むしろ学力低位層の学習意欲を奪うだけであるとの考えも支配的ですが、どうもそうとも言えないかもしれない。できる子どもができない子供に教えることで、総体的に学力が向上するというシナリオはもしかしたら成り立っていないかもしれないというのです。以上が研究の成果です。

 私の経験上、確かに学力低位層の生徒は学習に関して自信が持てず、自己肯定感が低い者が多いということは言えます。今はできないけれど、やればできるようになると考えている生徒は学年が上がるほど減っていきます。学力の高い生徒は逆に自分の学習の在り方に自信をもち、より成績を伸ばす傾向があります。もちろん油断のあまり成績を落とす生徒もいますが、それには家庭や学校生活などの別要因が働いていることが多いと思います。すると、必ずしも学力の高い級友に囲まれていることは学習効果を上げる要因にはならないということになります。

 それでは、習熟度別のクラス編成がよいかといえば、私はそうも言えないと考えています。まずは教員の教え方が習熟度別になっているかどうかの問題があります。そして、結局同じテストで判定するとなれば、学力の向上を実感することは難しく、低位層は固定化する可能性があります。また、上位層でも自分の成績が周囲に対して優位であるという実感が薄れれば、学習意欲に関わる可能性もあることになります。

 以上から考えるのは、きわめて常識的な結論なのですが、教員はどのような環境にあっても生徒に学習意欲を保たせるための方策を打たなくてはならないということになります。周囲より成績が劣っている生徒に対しては、現在の成績がすべてを決するのではなくあくまでも途中経過であり、貴方には可能性があるというメッセージを伝え続けることが大切だということになります。成績上位者にはより高い目標を抱かせることがさらなる飛躍の要因になります。

 昨今の教えあい、学びあいがすべてを解決するという風潮は少なくとも教師の立場からみれば再考すべきであると考えました。そして教員の存在意義と責任の大きさを改めて感じた次第です。

 

牛久駅前

 横綱稀勢の里の故郷ということで脚光を浴びた牛久に来ました。駅前は地方都市らしい静かさです。


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 最近、再開発した駅前広場にはやはりこれがありました。


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 一人の英雄がこの町にもたらしたものは大きかったようです。

 この後、かっぱバスというコミュニティバスに乗るのですが、美女集団が同乗してきました。揃いの服には桜美林大学の刺繍がありました。町田市民としては看過できず、一人に何事かと尋ねたところ、近くの球場の野球の応援だとか。桜美林大学のチアと言えば世界レベルと聞いたことがあります。

 調べてみると首都大学1部リーグで筑波大との対戦だったようです。こんな美女集団に応援されるとは何と素晴らしいことか。実にうらやましい。

 その後試合結果を検索したところ桜美林大学は大敗しているではないですか。真っ先に思ったのは野球部よそれはないだろうということです。チアの応援者もいるのです。少々動機不純であるかもしれませんが。

 牛久は茨城県の小さな地方都市です。ただ、そこにもまたさまざまな人間ドラマがあり、いろいろな人が訪れては去るのです。


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