はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

歯科受診

 親知らずがどうもよくない状況になっていてついに歯科受診をすることになりました。久しぶりに歯医者に行ってみてその設備に驚きました。院内の明るい雰囲気や音楽はもちろん、診療台の快適さ、それごとについているディスプレイ、そこには診察の合間にはテレビ画面が映し出され、診察時には口内写真やレントゲン写真を表示するために使われるといったものでした。

 最近の歯医者は過去のものとは違うとは聞いていたものの、これだけ違うとは思いませんでした。おそらく恐怖心をあおる場所としての歯科医院というイメージを崩すためにいくつもの工夫がなされた結果だと思います。

 さて、こんなことにいちいち驚いているほど歯科医から遠ざかっていた私の歯の状態はかなり悪く、抜歯に及ぶことになりそうです。抜けば一週間は腫れることもあるとか、体の方は最新鋭ではなく中古も中古ですから仕方ありませんが、なんとか仕事に差し支えがないようと願うのです。

爆音

 このことろ戦闘機が訓練飛行することが増えているようで、突然の爆音に驚くことがあります。米軍の基地が近くにある以上当たり前のことなのですが、このところの世情を考えると少々緊張感があります。そしてこれはあまり気分のいいものではありません。

 某国からミサイルが飛んでくるのではないかというウソのような本当のような話に振り回されて、私たちの日常はかなり危ういものの上に立っていることを実感するのです。

訳せないもの

 上映中の美女と野獣は大人になったエマ・ワトソンの魅力や特撮技術の粋を集めた映像美が注目されています。ミュージカルの手法が取り入れられた構成なのも従来通りであり、いろいろな意味でディズニーの王道をいくものです。

 日本語吹き替えも好評のようです。昆夏美と山崎育三郎のミュージカル俳優コンビは実力を認められている人であり、安定感があります。

 ところが、メインテーマのBeaty and the Beastに関しては翻訳がよくないとの声が多数あるようです。原文を逐語訳せず、全体のイメージを日本語にした訳詞は、やや字余りなことも含めて批判されています。

 英語の歌詞は多分に比喩的で歌詞の中にもある押韻が効いたものになっています。これを日本語化するのは至難の業であり、ましてメロディにのせるとなるとさらに難易度が上がります。おそらく、計算の上、今回の歌詞にたどりついたのでしょう。

 それでも違和感を持つ人が多いのは、訳せない何かを見つけているからだと思います。文学的情緒的な内容は簡単には翻訳できないという事実を認識しておくべきだと思います。

 

解体進むグランベリーモール

 休業に入ったグランベリーモールの解体工事が進んでいます。線路越しに見えるのはすでに瓦礫となった東急ストアのあった建物です。


f:id:letswalk:20170518071519j:image

 完成予想図を見る限りではまったく外観は変わるようです。果たして住宅地の中のショッピングモールが無事に生まれ変わることができるのか。注目していきたいと思います。

解釈を求めるのではなく

 小説を使った授業では気をつけなくてはならないことがあると思います。それは一定の解釈を押しつけないということです。文学作品に対して読み方が一つしかないかのように考えさせるのは、明らかな間違いです。

 もちろん、まったく的外れの読みがなされたときや、筆者のメッセージを見逃していると思われた場合は、修正や誘導が必要です。しかし、その場合も手段は示しても、結論を強制すべきではありません。

 多様な読みを認める方法では、その主眼を自分の読みの根拠を説明させる方に力点を置くべきだと思います。どうして自分はそう読んだのか、その読みで何を得たのかといった自分なりの感性や論理を言葉にさせることが大事です。その中で自己修正が起こり、他者とのすり合わせもあるかもしれません。それが大切な局面なのです。

 テストの出題も出題者の解釈に対してどう考えるかを答えさせるものにしていくべきでしょう。あたかも絶対的な解答が存在しているかのように錯覚させる問題はやめた方がいいのではないでしょうか。

Windowsのアップデート

 昨日、Windows10のCreators updateが実行されました。思っていたより長めの時間がかかって更新された画面は特に変わりがないものです。ブラウザのedgeが機能改善したとの自己主張をする以外は目立った変更点はありません。話題になっているペイント3Dは可能性が大きそうですが、私にはややハードルが高い。使っていくうちに便利さに気づくこともあるのでしょう。

 アップデートもウイルスも基本的には似たようなものであることが厄介です。世界的なランサムウェアはついに日本でも発見されたようです。どうも古いOSだけが感染するものでもないらしい。ネットワークに繋がっていることの便利さと危なさを改めて感じているこの頃なのです。

推量の助動詞の婉曲用法

 古典文法を教える時に一つのヤマになるのが推量系の助動詞をいかに把握させるかです。現代語では「う・よう」が大半を受け持ち、伝聞的なものは「らしい」「ようだ・ようです」「そうだ・そうです」が、打消の要素が加わったものは「まい」が担当しています。ほかに「みたいだ」などを助動詞と考えるのならばもう少し増えますが、それらを使い分けるのは容易です。それを日常的に使っているわけですから。

 ところが、文語になると様々な推量の助動詞があります。現代語の「う」の直接の祖先と考えられる「む」を軸にして、それに時間の概念が付加された「けむ」「らむ」があります。「む」が他の語と複合して一語化した「むず」もあります。

 別系統に「べし」があり、これが多様な意味を持ちます。そして「む」よりは意味が強いと考えられており、この辺りの差は生徒には実感しにくい。ある人は英語のwillとshouldの差だというようですが、なるほどそういう言い方もできるものだと思います。さらに打消系も「じ」と「まじ」があり、「まし」という反実仮想で使うものが加わります。伝聞系には「らし」「めり」「なり」があるなど微妙な使い分けがなされていたことが分かります。

 推量の助動詞が多彩であることを教えるのはもちろん読解のための方法であることには相違ないのですが、さらに大切なのはこうした言語システムが生まれてきた文化的な背景を考えさせることではないかと思っています。もちろん文法を研究されている方から言わせれば飛躍的思考なのかもしれません。しかし、現象だけ教えてそこに何があるかを考えさせないのは不十分だと思います。

 これらの推量系の助動詞の大半は連体形で使われるときに婉曲の用法になると学校では教えています。つまり、推量したものを表す言い方は、実は全く認知できていないのではなく、実際は認知していながらそれをあえて遠回しに言っていると考えているのです。

 婉曲表現というのは断定を避ける言い方です。断定しないのは自己の判断を前面には出さず、結論は相手の判断に任せるという配慮によるものと考えられます。そもそも推量とは何かを推し量り、断定を下さないことでもあります。すると推量系の助動詞の豊富さは日本語の婉曲表現志向によるものと考えていいのではないでしょうか。

 古典作品を読んでいるとここまで婉曲的に言わなくてもいいのではないかという表現によく出会います。それは遠慮とか配慮というものを超えて、基本的な思考形式になっていると考えられます。これが日本語の文化なのではないかと思います。こういったことはよく言われていることであり、なにも私の気づきでも何でもありません。話題にしたいのはこれらの観点をどの程度まで生徒に伝えるべきなのか、あるいは問題提起として生徒に考えさせるのかということです。

 生徒にとっては古典文法の習得はあまり好きな分野ではありません。というより嫌いな分野です。その理由の一つは試験問題として古文の読解という多くの人にとっては受験後には無意味と感じられる終点のある知識だから(あるいはそう考えられているから)だといえます。しかし、古典文法もまた現代の日本人の在り方を考える手段になりうるものであるという考え方ができれば幾分その位置づけも変わるのではないでしょうか。