はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

初コート

 今日はさらに冷え込み初冬の趣すら感じられます。雨も降り続いており、寒さがしみこんでくるかのようです。今季初めてコートを着て出勤しています。通勤電車にはジャンパーやパーカーなどを着込む人も多数います。予報によればしばらく同じような天候が続くそうです。風邪に気をつけなくてはなりません。

絵を描くこと

 全く上手くないのですが最近よく絵を描きます。いろいろなものをスケッチしているのです。そのたびに自分の画才のなさを確認することになっています。それでも、絵を描くことによって様々な発見があるのはとても興味深く、当面は続けていきたいと考えています。

 例えば、人の表情を描く場合、漫画のような類型化した輪郭線や目鼻の描き方は現物とはかなり違うことに気づきます。顔はかなり複雑な図形であり、そのちょっとした配置によって、微妙な差異を感じ取ります。絵にしてみるとそれがとてもよくわかります。私たちが他人の感情を読み取る際にいかに相手の顔を読んでいるかということをです。表情筋の発達が人類の進化上重大な役割を果たしたという説もあるようです。

 逆にそのほかの対象物の中にはかなり単純化類型化してみているのものが多いことにも気づきます。実物の複雑な構造をそのまま写し取らなくても、ある方法に乗っ取って省略して描くことで実物に近い味わいがでます。植物の群生などは一枚一枚の葉を描かなくても陰影をつけるだけでそのように見えてしまうのは驚きです。逆を言うと私たちはそういうレベルで物を見ているということなのかもしれません。

 このように絵を描くことによって、私たちは何を見て何を見ていないのかを認識することができます。また、普段は見逃している何かを意識したり、こだわりすぎている細部を気にせずにすむことを確認したりすることもできます。その意味で下手な絵を描くことにも何らかの意味はあるのではないかと思うのです。

基礎学問の価値が分からなくなると

 最近の教育の風潮に国際化社会の中で役に立たないものには意味がないなどと平気でいう人が多いということがあります。一見矛盾がないかのように思えるこの表現には様々な欺瞞があります。

 まず、国際化社会、グローバル社会などという言葉が多様な意味を持ち、それぞれが勝手に解釈を行っていることがあります。国際化社会といいながら、それがビジネス界での競争を指していることが多いのです。つまり、外国から金もうけするのに役立つ学問しかやる価値がないといえば彼らの意見にかなり近くなります。

 役に立つ立たないというのもかなり怪しい言葉だと思います。何が役立ち、何が役立たないかという判断は実はかなり難しい。昨今の物言いは即効性のあるものは良いが、そうでないものは認められないということなのでしょう。古典教育などはそれがまともに浴びせられるもので、漢文などやっても意味がないなどという大人の言葉を信じる生徒諸君が後を絶ちません。

 そんな彼らはビジネス書に現状打開策として孔孟の教えを頼りに起業した人の話(結構ある)を読むこともあるはずなのですが、それが古典教育に淵源をもつことを忘れています。すぐに役立ちそうなものばかりに目が行き、一見無駄のようでいて実は思考の基底にあるものがなんであるのかを見失っているのです。

 役に立つものを学ぶのではなく、学ぶことによって何かの役に立てる下地にするという考え方を持たなければ将来の我が国はかなり危ういものになります。基礎的な学問の意味が分からなくなると、その上にあるすべての学問や技術が揺らぎだすということを認識しなくてはなりません。

英語の民間試験導入にまつわる問題

 今朝の読売新聞の一面トップは<国立大「マーク式と民間」>でした。2020年度から大学入試が大きく変わり、センター試験は「大学入学共通テスト」と呼ばれるようになります。変更点の特徴の一つが英語の「話す」「聞く」といった技能への評価の拡大です。「聞く」試験に関してはリスニングテストという一方通行の聞き取りながらこれまでも行われてきました。実施が難しい「話す」能力の測定に関して英検、TOEFLなどの民間の検定の利用が提唱されているのです。今日の報道によると全国立大学に民間試験利用が課される方針が決まったとのことです。

 この件に関して、読売新聞では受験生の費用負担の問題を挙げています。共通テストの受験料負担に加えて民間試験の受検料を支払うことが義務づけられるのです。記事によるとその受検料は5,000円から25,000円です。例えば過去に英検1級をとっていたとしても判定の材料になるのは高校3年4月~12月であり、2回までの受検機会が許されているといいます。単純に考えると最高級(もしくは得点)に挑戦するため50,000円の追加出資をする受験生が発生するということになります。経済格差をさらに生み出す要因であると指摘されても否定するすべはないはずです。

 英語の教員とこのことを話したところ、話はそんなに簡単ではないとのことです。都心には複数の民間検定試験があり、受検機会が確保されているものの、地方では試験会場がない地域も多いとのことです。その地域にすむ受験生たちは交通費を支払い、場合によっては宿泊までして試験を受けなくてはなりません。すると出費は50,000円どころではなくなるのです。まとめると新制度は金持ち有利、都会生活者有利ということになります。

 こうした条件はもちろん現在でも存在しています。しかし、今回の受験制度の変更によってそれがいっそう明らかなものになってしまうことになります。親の収入や住んでいる地域で学問に接する機会が決められてしまう状態はよくありません。地方創生などと一方で掛け声をかけても、この状態が続けば地方を捨てる人が増えるのは当然の成り行きでしょう。

 そこで何ができるでしょうか。英語の技能判定に会話力が必要なのは分かります。その能力を測るのを民間の検定とするならば、まずはどの検定を利用するのかを決めなくてはなりません。選ばれた検定機関は毎年決まった受検生を確保できる訳ですから、飛躍的な収入増が見込めます。当然、そこには注文をつけなくてはなりません。まずは大学入試として利用する場合は、受検料をできるだけ安価に設定してもらうことです。国による補助は最小限に抑えなければなりません。また、受検会場の設置数、分布に関しても条件をつけるべきでしょう。

 さらに、本当に民間機関でないとできないのかも考えてみなくてはなりません。各大学が一定の認定基準を設定すれば、そこに属する教員などで実施することも可能なのではないでしょうか。そういう選択肢もあるべきです。この問題は今後の日本の在り方に直結する問題だけに多くの人に関心を持ってほしいことでもあります。