はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

受け入れる伝統

 火山活動がいつあるのか、地震が壊滅的被害をもたらすのはいつなのか。そういう不安をどこかに抱えて私たちは日々を過ごしています。それがこの国に住む人の気質を形成しています。

 突然訪れるかもしれない危難の日を私たちは受け入れる心の伝統を持っているようです。決して逃げだすことなく、プレートの末端に住み続けている。その潔さが文化や国民性を形成しているのでしょう。

 危機に強い民族の伝統には今後訪れる難問に対処する能力として期待できるのではないか。漠然と無根拠にそんなことを考えています。

音楽の未来

 グラミー賞の中継番組で聞いた興味深い話を記しておきます。ノミネートが4から8に変更になったのはレコード業界の思惑もあるが、それよりジャンルが多様化して4に絞り込むのが難しくなったことが原因であるというものです。

 楽曲の種類が多様化し、いままでの区分に所属しない、もしくは複数に当てはまってしまうものがあるというのです。ただそれが直ちに音楽性の発展には結びついてはいないようで、傑出した作品がなかったという評もありました。

 一方でいわゆる生歌生演奏に拘ることで個性を出そうとする動きもあるとか。最近はほとんどの曲が何らかの形でコンピューターの助けを得て作られており、中には作曲や編曲をAIに任せているアーティストも出てきていると聞いたことがあります。そこまでではなくとも制作や演奏に機械的な支援を受けるのが当然になっている昨今、全くの手作りの楽曲はむしろ貴重であることになるのだそうです。

 音楽は数学との親和性が高いと聞いたことがあります。ならばコンピューターの入り込みやすい分野ということになります。作曲という行為の将来を考えるのはなかなか興味深い未来予測です。

降っても積もらない

 今日ももしかしたら雪が降るかもしれないとの予報が出ています。降っても積もらないようです。この時期、年によっては降雪で大学の試験に支障がおきます。今回はそんなことはないようでよかった。試験をこの時期にすることだけは賛成しかねるのが私の意見です。毎年のことなのにどうして変えられないのか。これは学期始めを9月にすることとは別の議論でいけそうなのですが。

手亡豆

 和菓子の車内広告のなかに「手亡豆」なるものがあり、どう読むのかどんなものなのかが気になっていました。実はその広告にはいくつかの豆の種類が写真で並べられており、消去法でそれと知ることができていたのですが、それでも確証が持てずいました。

 いろいろ調べてみると白いインゲン豆のことであり、白あんの原料として使われている豆らしい。そして読みはそのまま「てぼうまめ」(「てぼまめ」という地域も)でした。手とは蔓性のまめの支柱となる手竹のことで、この豆は当初の品種では半蔓性で支柱が不要であったための命名という説が有力です。なぜ「亡」の字を使うのかについては検討の余地があり、もしかしたら別の語源があるのかもしれません。

 まんじゅうなどの白あんの原料として普及していますが、最近はそのままサラダやスープにいれた料理もよく目にします。あの白い豆がこういう名前だったとは。名前を知ると急に存在が浮き上がって見えてくるから不思議です。

擬似的復活

 思春期の若者がよくいう死にたいとか死ねとかいう言葉は、その刺激的な内容からしばしば問題になります。本当に死を選ぶことはめったにないのですが、全くないわけでもないのが厄介です。

 死に関する関心は精神分析の分野ですでに説明がなされています。死への欲動なるものが発動するのだとか。それを克服するための諸活動も確認されているとかで、この方面で若者の言動もある程度は説明できます。

 死にたいという言葉はそれを言うことで自分をいったん死の間際まで擬似的に追い込み、そこから生還することによって生を実感している。そう考えれば、少し言葉の刺激は緩やかになります。自傷行為などを見せられたときにもこのことは当てはまるのかも知れません。

 ただ、自分の子どもが死にたいと言ったときに受ける衝撃はやはり大きい。その衝撃は周囲に伝染するかのように広がる要素を持っています。精神分析の成果の真相は分かりませんが、言葉の奥にあるメッセージを考える余裕はほしいと思うこの頃です。