はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

読書感想文を書くなら自分のことを

 以前にも同じようなことを書いたことがありますが、その時期になってきましたので再度書きます。今考えていることを踏まえますので前回とはすこし違った意見になっています。読書感想文を書くならば書評ではなく、自分のことを中心に書くべきだというのが私の持論です。

 読書感想文はあくまで本を読んだ感想を書く文章だと考えます。もちろん、本から受けた印象を書くのであって、まったく自分の言いたいことだけ書くこととは違います。でも、多くの人が陥りやすいのは専門家が書く、書評のまねごとになって書いた本人の感想が欠落していることです。もっとひどいのはあらすじだけを綴って、最後に私もそのように生きたい、などと汎用性のある言葉で締めくくって結局自分の思いが記されていないことです。

 感想はあくまで個人の意見であり、人によって大きく変わって構いません。恋愛小説を読んで政治のことを考えたり、逆に経済の仕組みについて書かれた文章を読んで人生の不思議に思いいたったとしても何ら不思議はないのです。自分の感じたことを書くべきであり、それが読書感想文を書く本来の意味です。

 対象する本を読み終えたら、その内容を身近なことにひきつけて考え、自分を主人公にして話を組み立てなおすのがよいと考えます。独りよがりな読み方こそ新しい考えを生み出します。ただその際に、例えば小説なら展開を変えてはいけません。私なら、このように行動する、そもそもこのようなことをしないという感想ならば小説の世界を壊してしまいます。あくまで、主人公と同じ行動をし同じ結末を迎えたと仮定してから自分の世界にひきつけるのです。

 大恋愛の末に死を選んだ主人公が描かれている小説を読んだとしたならば、死後の世界ではどのようなことを考えるのかを自分なりの視点で書くのもいいと思います。自分の思いを書くことが読書感想文です。それを他人にも分かるように書くのが文章力の養成にもつながります。

公共性の確保

 NHKスクランブル放送にしようという考えを提示した政党が話題になっていますが、放送の公共性を考えるのならば絶対にやるべきではありません。

 メディアを動かしているのはスポンサーです。その利益のために放送はなされています。民放はCMを流すことによって収入を得ています。その利益で番組を作り、番組の魅力を上げることで新たなスポンサーを獲得します。だから、時流に合った面白い番組を作ることができる一方で、スポンサーの意向に合わない内容は避けることになります。我が国の言説が広告代理店によって大きく影響されているとの見方はその意味ではあたっているでしょう。

 NHKは公共放送という立場で、国営ではありません。時の政治権力とは一線を画すという立場にあるのでしょう。そのため、特定の利益集団のために放送をすることは原則的に禁止されています。ただ、実際には完全に中立な報道などありえず、時には偏向と論じられることもあります。でも例えば災害時の放送や、収益性の低い地域へのサービス、高齢者や外国人などの社会弱者への番組提供など、コマーシャリズムにさらされている民放各局にはできない特権があります。このブログでも東日本大震災直後の報道を比較したことがありますが、その差は歴然としていました。

 金を払った人だけに見せればいいという発想はこうした弱者切り捨てを間接的に言っています。ニュースや朝ドラ、紅白だけは無料でなどと言っている人もいますが、インターネットでただ乗りに慣れてしまっているのでしょう。

 ニュースはネットでみるからよいという人もいます。私はネットニュースが自分用にカスタマイズされてしまうのも問題だと感じています。自分にとって見たくないニュースも提示してくれるのが公共性の前提です。

 受信料が高いという批判、公共性を逸脱した番組が増えているという指摘などは真摯に検討していくべきでしょう。ただ、気に食わないからなくしてしまえというのは公共性を確保することを拒むものと考えられます。現代人が蓄積しつつある不機嫌さと、近視眼的世界観との一つの現れといえると考えられます。

死臭を知らない平和論

 私たちが平和を語るとき、それは多くの場合机上の空論です。多くの人は戦争を知らず、死臭をかいだ経験もない。それは仕方がないことであり、平和を語る条件にするべきではありません。

 ただ、自らが生死の境に立たされていない私たちにとって、戦争は過去の事実であり、たとえ何万人、何十万人が死のうと実感としては伝わってきません。それが現代人の最大の弱点であると察します。

 戦争ゲームがそのまま現実につながると考えている人はいないとは思いますが、戦いがゲーム感覚で行われ、勝利すれば報酬がもらえるという感覚はかなり定着しつつあると考えます。私はどちらかがウィンする戦いはないと考えています、かならず双方に傷は残り、場合に酔っては致命的な問題になることもある。そう考えています、

 私は戦争を直接体験した先輩にもっと積極的に発言してほしいし、それが混迷している事態を変えるきかっけになると信じています、自分の平和への執念を見せるのが今日の記念日の目的のひとつと信じます、

緊張を楽しむ

 全英女子オープンゴルフで優勝した渋野日向子選手の型破りのマインドコントロールが話題になっています。海外の一流選手でさえ神経質になって本来の実力が発揮できない大舞台でも全く動じることがないかのように見える姿は世界の人々を驚かしました。

 試合を中継していた岡本綾子さんは、試合中の選手には本人にしかわからない特別な緊張があり、それを渋野選手はあえて明るく行動することで実力を発揮できたのであると解説していました。

 いざというときに体が緊張して動かなくなるのは生物的な意味があると聞いたことがあります。日常とは異なる行動をなるべく避けようとする本能が関係しているとも言います。しかし、現代人の生活は同じことの繰り返しでは生きていけません。むしろ新しいことに日々切り込んでいかなくてはならないのが現代人の宿命です。まして、安定期を通り越した日本社会にとっては新機軸への挑戦は不可欠です。緊張を楽しむといった発想の転換が必要なのでしょう。

 スポーツ選手から学べることはいろいろあります。渋野選手の笑顔の力も参考にすべきだと考えました。

挨拶

 山を歩いているとすれ違う人ごとに挨拶を交わします。この習慣はいつから始まり何が起源なのかは知りませんが、とても素晴らしいものです。この精神が日常でもあれば世の中は随分違ってくると思うのです。

 今朝、駅の誘導員が乗客一人ひとりにおはようございます、いってらっしゃいませと声をかけていました。それだけでもどこか安心感が向上した感がありました。恐らく挨拶は自分の存在を認めてくれているという証拠として安堵をもたらすのでしょう。思えば山道で挨拶をするのも自他の存在を確認しあうという目的があったのかもしれません。民俗学的な解釈では相手が異類ではないことに確認しあう行動ではないでしょうか。

 見ず知らずの人たちが高密度に存在する都会において、挨拶という行動がもたらす効用は大きい。せめて挨拶を交わす仲になるだけでも、疎外感は薄まるのですから。

新聞の役割

 新聞を読むことは結構難しく、ほとんどの記事を読まずに過ごしてしまいます。インターネットでニュースは手に入る時代に紙面の新聞が果たす役割はあるのでしょうか。

 新聞を読む際に最も大切にしているのは1面~3面辺りの記事の配置です。どういう記事がどれだけの面積を取って報じられているのかをまず最初に注目します。そして社説のタイトルに注目します。興味があれば読みます。これは新聞社が社会をどうとらえているのかを具現化したものですから、メディアによる社会の把握の仕方を知ることになります。

 実はこれが新聞を読む意味だと最近は思うようになりました。ネットニュースの大半は自分の検索歴などの情報に基づいて表示するニュースを個別に変えてきます。すると、自分の関心のあることがニュースとして並ぶことになり、結果的に客観的な世情を知ることから遠ざかります。メディアによる情報選択がなされた上に、さらにネットニュースサイトが選んだニュースだけが表示されていく。すると世界はまるで自分が中心で回っているかのような錯覚にとらわれてしまうのです。

 新聞も一企業が自らの立場の下で選び、自分の都合でニュース記事を書いていることは変わりません。ただ、ネットニュースよりはフィルターの数が少ない。そのことを重視すべきであると考えるようになりました。将来的には紙面による新聞の配達はなくなっていくのかもしれませんが、誰にでも同じ内容と分量のニュースを提供するメディアの必要性は変わらないのです。