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だまし討ちは許される? 古事記の英雄たち―私の古典文学散歩(2)

 古事記日本書紀とともに神話と呼ばれる作品です。神話はファンタジーとは異なり、あくまでそこに述べられていることは真実であり、現在のさまざまな事実の理由説明になる規範であったと考えられます。
 古事記を読んでいて少々気になることがあります。それはだまし討ちをして敵を倒すことが繰り返し出てくることです。私たちは汚い勝ち方をすることには抵抗感があります。正々堂々と技や力で相手を圧倒することこそ、勝利の美学のように感じている方が多いでしょう。
 ところがどうでしょう、スサノオはヤマタノオロチを酩酊させて切り殺します。これはまだ許せるにしても神武天皇は遠征中に出会った異民族ヤソタケルを宴会に招待し、歌を合図に軍勢に攻撃させ一網打尽にします。ヤマトタケルは女装してクマソに近づき、出雲では友人になったふりをして相手を油断させて土豪を斬り殺します。応神天皇は即位前に、大山守命をおとりにおびき寄せ謀殺しています。反正天皇は、即位前にライバル墨江中王を倒すために、その舎人(従者)のソバカリに内応します。そして墨江中王を殺害させたあとにこのソバカリを宴会に招き、大杯に視界がさえぎられているころあいを計って斬首しています。
 このように、いわゆるだまし討ちが繰り返し述べられており、それに対して何の弁明もないことに私は非常に不思議に思います。もちろん現在とは倫理観が違うということが、簡単な説明でしょう。むしろ、謀略ができることが英雄の証だったともいえます。
 でも私はこうも考えるのです。きわめて史的信憑性が高いと考えられる天皇の時代以降も謀略は繰り返し語られます。こうした卑怯な方法は非難の対象にもなりかねません。しかし、神話をもってこうしたことは神代からあったことであり、英雄の条件だと語ることによって現在の為政者の一見無道と思われる方法も正当化されると考えたのではないでしょうか。神話は現在の規範と述べましたが、その意味で古事記は荒唐無稽の物語ではなく、きちんと政治的機能を持った聖典ということになります。