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如意の渡りの弁慶・義経―私の古典文学散歩(3)

 歌舞伎の「勧進帳」は歌舞伎十八番の一つ。市川海老蔵団十郎のお家芸として江戸時代から今に伝えられているものです。初演は天保11年(1840)です。これは源頼朝に追われて諸国を敗走する義経一行が加賀の安宅の関(現在の小松市)まで来たとき、関守の富樫左衛門に見咎められるのですが、それを弁慶が機転をきかせて関を突破するという話です。弁慶は自分らを消失した東大寺再建のために勧進の旅を行っている山伏となのります。富樫はそれならば勧進帳を読んでみよと命じるのですが、弁慶は手持ちの巻物をそれらしくしかも朗々と読み上げ、何とか関所を切り抜けようとします。ようやく成功したと思われたのですが、義経の正体がその風貌から見破られそうになります。窮地を迎えた弁慶は主人の義経を打ち据え、疑いを晴らすという内容です。歌舞伎ではそのディフォルメされたメイクや、飛び六方などの奇抜な演出が印象的です。
 この勧進帳は能の「安宅」を歌舞伎にしたものであり、室町時代の成立です。「安宅」では富樫の影が薄く、弁慶の機転が中心的な趣向になっています。歌舞伎「勧進帳」の富樫が単なる悪役から、義経であることを知っていながら人情から見逃すという好人物に変容するのも印象的です。
 さて、この話は中世に生まれた「義経記」にも描かれています。義経はその実人物の死後、かなり早い時点から伝説化され、尾ひれがついて語られた人物ですが、「義経記」は中世における義経伝説の集大成といった感があります。
 この「義経記」では、義経を打ちのめす場所は安宅ではなく、如意の渡りという場所になります。ここは現在、富山県高岡市伏木のことだと考えられ、現在でもその名の地名があり、渡し舟があります。さて、「義経記」では、次のような話になっています。

 義経一行が如意の渡りに着き、渡船を出してくれるように申し出ます。すると渡し守の平権守は、越中の守護から山伏が多数で来たならば報告するようにいわれているといって、船を出そうとしません。弁慶は私は有名な羽黒の讃岐坊だ、それを知らないのか。というとああ、知っていると言い出すものがいる。そこでそれなら渡してやろうということになります。
 ここからがユニークです。弁慶はこの中に義経と思われる者がいるか、そう思う者をあげて欲しいと申し出ます。すると当然言い当てられます。弁慶は憤怒の表情を浮かべて、「あれは加賀の白山から連れて来たものだ。あいつは所々で、人に怪しまれてしょうがない」と言って、浜辺に投げ捨て、扇でさんざんに打つことになります。そこで疑いを晴らし、船に乗り込みます。弁慶は船賃をただにする交渉にも成功し、渡河に成功するという話です。

 ここには勧進帳のエピソードがまったくありません。義経を打ち据えるきっかけにも違いがあります。「義経記」はストーリー上不完全な部分があり、矛盾や飛躍が多く見られます。ただ、それゆえに中世の義経伝説のあり方を考える上での重要な資料になっています。