はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

共有の難しさ

 私たちは自分の目にしているもの、聞くもの、触れるものをあたかも絶対の真実であるかのように信じています。百聞は一見にしかずという諺も、より直接的な経験が真実に近づくことだという前提の下にあるわけです。
 しかし、最近、いろいろな立場の人の意見や、感覚の異なる人の話に接するにあたり、この前提を深く疑うようになっています。私たちは自分で見たものをそれほどたやすく共有することはできないのではないかという少々悲観的な思いです。同じものを見てもそれをどのように感じ取るのかは人それぞれ違います。この違いはもちろん民族、文化、共同体、家族といった集団のなかで形成される、言ってみれば後天的な要素が影響しているものが大半だと思われます。でも、先天的な感覚の違いというものも実はかなり大きな比重を持っているように感じるのです。
 ある現象をみて、どのような反応をするのかについて、人それぞれがもって生まれた系統的なやり方が、個々人で異なっており、それが微妙な違いであるだけにかえって分かりにくいのではないかということです。この違いはあるいは無視できる程度の差であることもあれば、顕著な差異として我々を驚かすこともあるように思います。それを脳の行動パターンと結びつけるのが解剖学的な観点なのでしょうが、私にはそれはよく分かりません。
 私は教員として、これを言えば分かるはず、分からないのは生徒が悪いという考え方を根本的に見直そうとしています。さまざまな感性の相手にどうやったら必要最小限の情報を伝達できるのかについて、工夫しなければならないことはたくさんあります。