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テナルディエの末裔

 先日、帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を観てきました。新しい演出と配役ということや、映画版を観た印象もまだ消えていなかったのでいろいろな意味で楽しみに劇場に向かいました。幕が下りた後、期待を裏切らない演技の迫力と、工夫が見られるさまざまな演出効果を感じました。すばらしい公演でした。日本語で演じられたことから新たに気づいたこともありました。

 この演劇の基本を貫くのは悲劇の連鎖と、そこからの救済です。主人公ジャン・バルジャンは軽度の犯罪から投獄され、不当な刑罰を受けたことから人間不信に陥りますが、司教の慈愛の心に触れて別の人物として生きなおすことを誓います。しかし、その過去からは容易に抜け出すことはできず、どんなに善行を積もうと過去はついて回るのです。結局、彼は人を信じることを後半の人生で貫くことによってその頸木から逃れます。しかし、その時には人生の時間は残っていませんでした。

 バルジャンを追い詰めるジャベールは法に絶対の真理を求め、それに殉じます。法こそが人生の基本であり、それを犯すものはいかなるものも許せません。バルジャンの慈悲を受けた自分自身が法に反する行動をとった時点で生きる意味を失ってしまいました。

 ファンテーヌは自分の夫や、工場長、同僚などさまざまな人々からの裏切りを受け、人間不信に陥ります。その点ではバルジャンと共通します。また、バルジャンの愛を受けてわずかに救済の気配があった時に落命します。この点も主人公と同様の悲劇の人生でした。

 エポニーヌは恋する男がいながらも、その男が別の女性が好きであることを知らされ、なおかつ自分の愛に気づかないことに焦燥しながらも、男のために振る舞い、最後は銃弾に倒れるという悲劇の人生です。純粋な恋情が報われることなく終わるのは悲しいですが、自分の思いを最後まで貫くことができたという点においてはこれまで述べた登場人物とは異なります。

 さて、欲深いテナルディエは詐欺同然の宿屋を経営し、ファンテーヌからはコゼットの養育費を奪い、盗賊まがいの行動や、死体から物品を掠め取るなどおよそ私欲の権化としての役割を演じます。その滑稽な行動は悲劇の合間にブラックな笑いをもたらす重要な役どころです。劇中では彼とその婦人は最後まで死にません。そして、その不敵な行動も改まることがありません。観客は苦々しくその存在を思いながらも何故か憎めない存在と考えてしまうのです。

 実はテナルディエこそ私たち現代人の姿そのものなのかもしれません。何かにつけ、利益を生み出すことばかりを考え、他人のことは深く考えない。もちろん劇中の人物ほど極端ではないにしても、現代人にもっとも近い存在として演じられているような気がしてなりません。私たちはテナルディエの末裔である。それがこの演劇を見終わったあとの苦々しい後味です。これが最大の悲劇なのかもしれません。