はてなの毎日

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婉曲という文化

 古典を教えていると日本語には数多くの婉曲表現があることに気づきます。推量の助動詞「む」は連体形で用いられるとほぼ例外なく、推量の意味が薄まり婉曲的な意味になりますし、「めり」をはじめとした推定の助動詞など、いわゆる推量系の助動詞が豊富なのはその実例です。また「てふ」「といふ」などの直言をさける言い方も多く、日本語の伝統は断定的な物言いを避けようとすることにあったと言えるのかもしれません。
 このことについてはしばしば日本人の価値観や、それを育んだ社会と関連づけられて語られます。そして、それがあくまで問題点として扱われ、曖昧性が国際化を阻んでいるという文脈に置かれます。確かにはっきりとものを言わない習慣は異文化圏の人々にはわかりにくく問題点になるでしょう。たとえば知識人の書く文章にも頻繁に使われる「だろう」という末尾表現は、けっして「であると推量する」の意味ではなく、本心は「であると断定する」の意味なのですが、表面上は同じ形なので混乱するのです。
 私はこのような曖昧表現もしくは婉曲表現を廃していこうとする動きには賛成しかねます。確かに意思疎通の上で障害になる場面においては誤解を避けるための工夫が求められるでしょう。しかし、日本語の構造の深い部分で婉曲の考え方が流れている以上それは尊重すべきであり、この考え方があるがゆえに成り立っている豊富な表現世界を活用すべきだと思うのです。
 このことを永続可能にするためには、日本語の婉曲的表現法を適切に外国人に説明できる能力、もしくは手順が必要と思います。国際化の手段はさまざまですが、グローバルスタンダードに自分をあわせることだけでなく、それに則りながらも自国の伝統的立場を適切に説明することもその大切な要素と思うのです。