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国のため

 終戦70周年となる今年、これから様々な戦後の反省が各方面からなされていくことと思います。私はこの70年を「国のため」という考え方が不自由になった期間ではないかと考えています。

 戦中、多くの戦士が「国のため」に死んだと言われます。国家のために自己犠牲を払うことは美徳とされ、教育の中で当たり前とされたそうです。そこに批判精神はなく、否定することは悪とされたといいます。そのために多くの戦士は戦地に死し、非戦闘員も落命することを厭わなかったとされます。全ては歴史上の伝聞であり、真実の姿は知る由もありませんが、少なくとも大義名分はそうだったのです。

 戦後、反戦の機運とともにこうした全体主義的な考え方は否定されました。私は昭和30年代の生まれですが、「国のために」何かをするという言い方にはどうもためらいがあります。反戦の機運と教育の影響と言えるでしょう。日の丸を国旗として見たり、君が代を国歌として歌う時も、どこか心の奥に違和感が残っているのです。

 確かに無批判に自己犠牲を強いる「国のために」的考えは否定されるべきでしょう。国家に対する盲信は、実は国ではなく一部の権力者に都合がいいように利用されることになることは明らかだからです。

 しかし、この機運は「国のために」ではなく、他者のためにという考え方までも阻害してしまった気がします。資本主義の浸透によって個人主義は一層進み、それも個の尊厳に関することより利己主義の方に関心が傾いてしまった。最近の言葉で言えば「勝ち組」になることばかりを考えている。その背景には多くの「負け組」がいることに気づいていても、とにかく自分が勝たなければならないと思う。これは社会全体がそういう風潮を後押しするようにできているのです。だから、敗者は自分の居場所がなくなると思い込みます。自殺率が極めて高いのはそのためです。

 低成長の時代に入ってこの競争意識は行き場をなくしていきます。簡単に成功することは難しくなり、ごく少数の勝者と、そのほかの大多数の敗者が形成されます。グローバルな時代になって競争相手は国内だけではなくなりました。分野によっては国全体が敗者というものもあります。個々人の希望の芽は摘まれ、鬱々として気が晴れません。

 「国のため」という言葉にはやはり抵抗感がありますが、他者のために自分が行動するという人生観なり価値観というものは再生しなければならない。全体主義に利用されることを常に注意深く監視する必要はありますが、個人主義ではどうしても立ちゆかなくなっていることは確かだと思うのです。自分が自分であるのは、結局他者が存在するからであることは現代の哲学が言葉を変えて何度も説明しています。自己の存在をあらしめているのが他者であることを自覚すれば、少しは現代の閉塞状況を変えられるかもしれない。自分にできることがあるとすれば、若い世代にこのことを伝えることしかないと思うのです。

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