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「国語」の答え

 入試の時期になると必ず出てくる話題が「国語」の答えに関する話です。数学や理科と異なり、国語の解答にはある程度の幅があり、その不透明さが国語嫌いを生み出している。そもそも国語に一つの解答を求めるのはおかしい。文章の解釈は人それぞれであり、特定の「読み」に限定するのは誤りではないか。おそらくそのような話であると思います。こうした考え方はややもすると国語教師も持っているので深刻な問題の一つです。答えを出せないはずのテストで点数をつけ、成績をつけているということになるのですから。

 かくいう私もかつてはそのように考えていたことがあることを告白しておきます。解釈は自由であり、それをテストにするのは矛盾ではないかと。

 しかし、この考え方には前提に大きな誤りがあります。国語のテストは個人的な感性による解釈をもともと対象にはしていないのです。作品をどのように読むのかについては自由であるべきですが、まずは書かれていることを読み取る力があるかどうか、その最低限のラインを試すのが国語の問題なのです。

 それよりも大切なのは、出題の二重性に気づくことだと思います。現代文でも古典でも多くの場合、既成の作品の一部分を切り取って問題を作成します。例えば評論文の場合、出版された書物の一節を引用して作られるのですが、どこをどのように切り取るかは出題者が決めているのです。当たり前のことだと思われるでしょうが、この時点で著者(原作者)の意図とは異なるメッセージが発生する可能性が生じることになるのです。

 設問は切り取られた文章の中から作成されます。そして、その求められる解答とは実は出題者が意図したものに過ぎないのであり、著者の手からは離れているのです。今年のセンター試験の問題文の筆者が、自分の文章に付せられた問題が解けないかもしれないと言ったのはまさにこのことであり、決して不自然なことではありません。実は「国語」の問題とは掲載された文章の作者の意図を読み取るのではなく、出題者の意図を読み取る行為なのです。

 出題者は何を基準に解答を作るかといえば、それは表現されたことばの構造だと言えます。書かれていることからたどり着くべき解答を求めるのです。だから、解答する上で不足していることはわざわざ脚注に列記して他の解釈にたどり着かないように規制をかけます。大学入試問題の中にはたくさんの注がついている問題を見かけますが、多くの場合その注の内容が解答のヒントになっているのです。

 つまり、「国語」はあくまでも答えさせるべき解答があって、それにたどり着くための手続きを論理構造の仕組みの中で行わせるという問題なのです。自由に解釈や意見を述べるのは小論文などの論述試験で行うものであり、「国語」はそうではありません。厄介なのはこのあたりを混同している教員も多いということです。

 誤解を恐れずに言うならば中等教育の「国語」は読むための手続きを教える教科であり、その先にあるものを期待しつつも、テストではあくまでその手続きのレベルの内容だけを聞くという建前でできているのです。だから、「国語」のテストの答えは一つであり、その意味で数学や理科と同じ方式でテストができるのです。