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素材と型

 中等教育の国語についての再考を行っているのですが、現在のところ「素材と型の伝授」という方向でまとめようと考えています。これは今までと基本的には同じなのですが、教える際の目標の軽重が無意識のうちに偏っていたのをバランスを考えて修正することだと言えます。

 「素材」というのは物事を考える際の材料となるもので、言語のレベルでいうなら語彙ということになります。私たちが言葉を使って物事を考える以上、語彙の数が適切であることが欠かせません。「すごい」「やばい」で何でも表現してしまえば思考は単調なものとなり、詳細な差異を見逃すことになってしまいます。日常生活では使用頻度が低いけれども、思考を行う上では欠かせない語彙を学習者と出会わせる機会を設けなくてはなりません。そのためには辞書を引かせる習慣をつけ、習得した語彙を自ら使う場面を作っていかなくてはならないでしょう。

 この分野で私たちがこれまで取り組んできたことに漢字の学習があります。日本語の場合、抽象度が高い語彙のほとんどが漢字熟語であり、漢字の音訓を通して日本人は高度な思考を達成してきた歴史があります。これまでの漢字の学習はどちらかといえば「書き取り」「読み」を最終目標にしていました。「カタカナを漢字に直せ」「漢字の読みをひらがなで書け」ができればよいとしていたのです。しかし、漢語が思考のアイテムである以上、ただ読み書きできるだけでは事足りず、それを積極的に使えなくてはならない。漢字を丸暗記してもすぐに忘れてしまうのは、漢字を単なる表音文字としてしか捉えられないからです。

 教える側が漢字学習を国語表現のための素材獲得の手段と意識することが、まずは現状突破の糸口になると考えています。そのためには学習のさせ方やテストの作り方に工夫がなくてはならない。文字変換をして終わりにならないよう、語彙の意味や用法も含めて覚えさせる必要を感じるのです。

 次に「型」の教育です。この点においては私自身の大きな反省点があります。言葉を使って物事を考える上での基本的な手順や方法を意識的体系的に教えることが大切なのです。私はこれを意識せずに教えてきたために、学習者に効率的に教えることができていなかったと思うのです。例えば、何かの理由を問われた場合、その解答は因果関係を明らかにしながら説明することが必要になります。また、「Aとは何ですか」「それはAです」という同語反復を犯さないように置き換えや比喩、対比などの手法があることを教えなくてはなりません。これらについては個別に教えていくという対症療法的な教育をしてきたわけですが、それでは体系的には身につかない。理数には公式があり、原理があるのに、国語は場当たりでなんでも「文脈判断」ということばで片付けてしまう。だからわかりにくい。国語はわかりにくいから嫌いだという学習者を量産してしまったのではないかと反省するのです。

 思考の手順とそれを伝達する際の言語表現の手順には型があります。数式のように単純化することは出来ませんが、それでもやはり型といえるくらいに集約できるものがあるのです。それらを中等教育の場で意識させ、使わせることで国語力(それが英語なら英語力)を向上させることができるのです。国語表現の型についてはすでに多くの研究者の見解があります。また、大学受験の現代文を担当している予備校講師が経験的に獲得した方法も参考になります。彼らは短い期間で入試問題のような論理的思考を要求する問題を解く能力を付けさせるために、独自の型的な読解法を編み出しているのです。

 読解の型を覚えることは、そのまま作文や口頭発表の型を習得することにつながります。今後の国語学習は自主的探求精神に基づく、発信能力にも配慮していかなくてはなりませんが、その際に思考の手順の型や、表現手段としての型を持っていることは必須の知識といえるでしょう。

 もうひとつ、忘れていけないのが感受性の型だと思います。何かに対してどのように感じるのかは個人の自由であり、それを縛ることは出来ません。いま適当な言葉が見当たらないのですが、「感じ方」のことを漠然と想定しています。例えば桜の花を見て何を感じるのかは人それぞれでしょうが、日本人がこの花をどのように扱い、どう捉えてきたかという心的な伝統は確かにあります。それは先天的なものではなく、民族の中で受け継がれる民俗のしての要素です。この「感じ方」はやはり教えていかなくてはなりません。国際社会の中で日本の独自性を主張するためには欠かせない要素です。またそもそもこうした民族的な感性の差異が存在することを知らなければ、異文化交流の際の障壁となってしまうでしょう。

 型にはめるということばには、個性を奪うとか矯正するというイメージが伴いますが、目的を言語表現能力の育成という点から逸脱しないことを注意深く意識する限り、問題はないと思います。むしろ、表現手段を獲得することによって、他人の意見を鵜呑みにしたり、思考停止してしまうことがない人材を作ることが出来るかもしれません。

 という訳で今のところ、新たな教育の目標を素材と型の伝授ということでまとめようと考えている次第です。