はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

実感なき議論

 戦後70年を経て、戦争を直接体験した人々の経験が伝承されにくくなっています。戦争の直接体験者もその後の人生のありようによって戦争体験はどうしても変質して行かざるを得ません。私たちは正確な過去を記憶することはできないのです。加えて、戦中世代が次々に他界されるなかで、戦争を知らない世代である私たちは極めて限られた情報の中で戦争を語らなくてはならなくなります。

 もちろん、20世紀の戦争がそれ以前と違うのは様々な文字、音声、映像などの資料が残っていることです。残酷な虐殺の映像や、累々たる屍体の山などの写真は心を動かすものであることは事実です。しかし、それらのメディアを通した過去に決定的に欠けているのは実感でしょう。実感がないため過去の映像を見るときにもさまざまなフィルターを通してみてしまう。そしてあくまでも自分とは無関係の過去の事実となってしまう。極論をいえば、明治の戊辰戦争関ヶ原合戦などの大昔の戦いと等閑視して歴史の本の中に閉じ込めてしまうことになっているのです。

 沖縄戦や原爆投下、そして終戦の記念式を続けることはこの実感なき世代に過去の事実を思い起こさせるためには大切だと思います。しかし、その意味が何であるのか、日本が戦争の加害者でもあり被害者でもあるという事実をどう捉えるのか、といった肝心の部分の説明をこれらの世代に繰り返し行っていかなくてはならないでしょう。

 最近の安保関連法案をめぐる政治家の議論にはどうも戦争の実感が欠けているような気がしてなりません。まるでゲームのように戦争を論じて得意になっている人がいるのは残念でなりません。