はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

長崎忌

 この日が来るたびに私は同じことを考えます。長崎へのプルトニウム爆弾がもし第一目標の北九州に投下されていたら、私はここにはいないと。少年時代の父が住んでいた北九州は曇天のため悲劇を免れたといいます。

 この話には当然逆があります。もし、小倉や八幡が爆心になっていたら、長崎で救われた命があったはずです。私の代わりに現在を生きる人が当然いて、私よりももっと価値のある生き方をしていたかもしれない。

 そんなに単純な話ではないことはわかっていますが、どうしても自分が生きていることの偶然性を考えざるを得ない。そしてこの偶然性が人間のつくり出したものであることに二重の問題点を感じるのです。

 長崎には何度も訪れていますが、どうしても私にとっては特別な場所に思えてなりません。