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はてなの毎日

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推量の助動詞の婉曲用法

 古典文法を教える時に一つのヤマになるのが推量系の助動詞をいかに把握させるかです。現代語では「う・よう」が大半を受け持ち、伝聞的なものは「らしい」「ようだ・ようです」「そうだ・そうです」が、打消の要素が加わったものは「まい」が担当しています。ほかに「みたいだ」などを助動詞と考えるのならばもう少し増えますが、それらを使い分けるのは容易です。それを日常的に使っているわけですから。

 ところが、文語になると様々な推量の助動詞があります。現代語の「う」の直接の祖先と考えられる「む」を軸にして、それに時間の概念が付加された「けむ」「らむ」があります。「む」が他の語と複合して一語化した「むず」もあります。

 別系統に「べし」があり、これが多様な意味を持ちます。そして「む」よりは意味が強いと考えられており、この辺りの差は生徒には実感しにくい。ある人は英語のwillとshouldの差だというようですが、なるほどそういう言い方もできるものだと思います。さらに打消系も「じ」と「まじ」があり、「まし」という反実仮想で使うものが加わります。伝聞系には「らし」「めり」「なり」があるなど微妙な使い分けがなされていたことが分かります。

 推量の助動詞が多彩であることを教えるのはもちろん読解のための方法であることには相違ないのですが、さらに大切なのはこうした言語システムが生まれてきた文化的な背景を考えさせることではないかと思っています。もちろん文法を研究されている方から言わせれば飛躍的思考なのかもしれません。しかし、現象だけ教えてそこに何があるかを考えさせないのは不十分だと思います。

 これらの推量系の助動詞の大半は連体形で使われるときに婉曲の用法になると学校では教えています。つまり、推量したものを表す言い方は、実は全く認知できていないのではなく、実際は認知していながらそれをあえて遠回しに言っていると考えているのです。

 婉曲表現というのは断定を避ける言い方です。断定しないのは自己の判断を前面には出さず、結論は相手の判断に任せるという配慮によるものと考えられます。そもそも推量とは何かを推し量り、断定を下さないことでもあります。すると推量系の助動詞の豊富さは日本語の婉曲表現志向によるものと考えていいのではないでしょうか。

 古典作品を読んでいるとここまで婉曲的に言わなくてもいいのではないかという表現によく出会います。それは遠慮とか配慮というものを超えて、基本的な思考形式になっていると考えられます。これが日本語の文化なのではないかと思います。こういったことはよく言われていることであり、なにも私の気づきでも何でもありません。話題にしたいのはこれらの観点をどの程度まで生徒に伝えるべきなのか、あるいは問題提起として生徒に考えさせるのかということです。

 生徒にとっては古典文法の習得はあまり好きな分野ではありません。というより嫌いな分野です。その理由の一つは試験問題として古文の読解という多くの人にとっては受験後には無意味と感じられる終点のある知識だから(あるいはそう考えられているから)だといえます。しかし、古典文法もまた現代の日本人の在り方を考える手段になりうるものであるという考え方ができれば幾分その位置づけも変わるのではないでしょうか。

 

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