はてなの毎日

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擬似的復活

 思春期の若者がよくいう死にたいとか死ねとかいう言葉は、その刺激的な内容からしばしば問題になります。本当に死を選ぶことはめったにないのですが、全くないわけでもないのが厄介です。

 死に関する関心は精神分析の分野ですでに説明がなされています。死への欲動なるものが発動するのだとか。それを克服するための諸活動も確認されているとかで、この方面で若者の言動もある程度は説明できます。

 死にたいという言葉はそれを言うことで自分をいったん死の間際まで擬似的に追い込み、そこから生還することによって生を実感している。そう考えれば、少し言葉の刺激は緩やかになります。自傷行為などを見せられたときにもこのことは当てはまるのかも知れません。

 ただ、自分の子どもが死にたいと言ったときに受ける衝撃はやはり大きい。その衝撃は周囲に伝染するかのように広がる要素を持っています。精神分析の成果の真相は分かりませんが、言葉の奥にあるメッセージを考える余裕はほしいと思うこの頃です。