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ドラマ・リテラシー

 昨年の大河ドラマが低視聴率に終わったことに対して私は視聴者のドラマ・リテラシーの低下という観点で考えています。確かにドラマの筋そのものがつまらなかったという見方もあるかもしれません。いや、それが第一の原因であることは間違いないでしょう。ただ、一方的に脚本の力量不足だったかというとそうとも思いません。私は制作側が今の視聴者のドラマの見方を把握していないことが大きな敗因だと考えているのです。

 「平清盛」という歴史上でも有数の知名度に対し、その人物像は「驕る平家」の棟梁としての悪役のイメージがあまりに強すぎます。現在の神戸の基礎を気づいた福原開拓の業績や、日宋貿易などの国際感覚については、その強烈な悪役キャラクターの陰に隠れてしまうのです。

 昨年のドラマはその平面的な清盛像に肉付けを施そうとした試みが多分に含まれていました。しかし、それは残念ながら失敗に終わりました。その原因は全編を通して、しかもある程度の集中力を持って観た視聴者があまりに少なかったことなのです。

 おそらく制作側は一年を通したストーリー展開を前提とした作品作りをしたはずです。しかし、視聴者側はあくまでその回限りの感覚で観ます。次回を楽しみにして待つという人は今の時代はかなり少ない。あまりにも多くの娯楽があるので一つの作品を見通すには相当の覚悟と努力が必要なのです。加えてドラマの楽しみ方が刹那的になっていることも大きい。ストーリーを流れとしてみることは少なく、筋の中に含まれるさまざまな工夫を発見できる人も少ないのです。場面ごとの刺激的な内容だけを追っている人が多いのではないでしょうか。

 このミスマッチが大河ドラマでは悪影響を及ぼします。視聴率を維持するためには、必ず各回で完結する話題を作らなくてはならなりません。伏線は短時間で解決するするものに限るべきです。最後まで見て、あのときのあの行動の意味が分かったというような仕掛けはテレビドラマではほとんど意味を成しません。

 韓国ドラマには毎回必ずといっていいほどショートストーリーが含まれ、それが各回で完結しています。一回だけ観ても理解できる結末があるから、視聴者は充実感を覚え、それが面白いという感想につながりやすい。クライマックスでは平気でポップスをBGMにかぶせますし、登場人物は自分の気持ちを演技でなく台詞で説明してしまう。つまり分かりやすい筋運びなのです。冷静に考えると冗長でわざとらしい展開なのですが、ぶつ切りに見る視聴者にとってはそれで丁度いいのでしょう。激辛料理も週に一度ならご馳走です。

 見た目も分かりやすくしなくてはならない。悪役は見ただけで悪役らしく、主役はどんな苦境にあっても清潔でスマートに振舞わなくてはなりません。清盛は青年時代まで汚しのメークをして登場しましたが、これが現代の視聴者には耐えられません。後半の栄華との対比を際立たせるための仕掛けも、後まで見てくれないと意味がない。この点をどこかの知事さんは軽々しく公表してしまったニュースがありました。私はドラマ・リテラシーが知事クラスの知識人にも失われていることを危惧したのでした。

 昨日、新しい大河ドラマが始まりました。今回は綾瀬はるかさんの主演であり、まずルックス面でのアピールは成功していると思います。史実の新島八重さんは同志社女子大学発行『同志社の母 新島八重』を読む限り、綾瀬さんとは「気性はともかく、体格はまったく似ていない」、「『相撲取りのように肥えていた』と悪口をたたかれたこともある」(P51)というのが真相のようです。初回放送の冒頭の鉄砲を担いで敵を倒す綾瀬・八重のシーンは西洋活劇の美女スパイのような印象さえありました。

 視聴率を確保するためのほかの要素はどうなるのでしょう。ストーリーの方はどうでしょうか。昨年の轍を踏まぬためにも話は分かりやすく、息の短い筋で、伏線はだれにでもわかるようにし、本筋から外れたラブロマンスを随所に挿入するのでしょうか。また、美化された衣装・大道具・小道具で臨むのでしょうか。それとも役者の演技力で歴史とは無関係の人間ドラマを作り上げることができるのでしょうか。

 日本のドラマ、とりわけNHK大河ドラマは教科書的な扱いをされることが多く、歴史からあまりに遠いと非難され、歴史に近すぎると面白くないといわれ、実に気の毒な位置にあります。制作側はその点をうまく考えて欲しい。また、観る側も歴史ドラマの見方についてもう少し寛容かつ忍耐強くならなくてはいけないと思うのです。そうでないと歴史ドラマの存在価値自体が危うくなる。鎧や兜をつけたトレンディー・ドラマは海外物に任せればいいし、少なくとも日曜の夜にNHKでやらなくてもいいと思うのです。