はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

長崎を思う

 1945年8月9日、当時は小学生であったはずの私の父は北九州の八幡で暮らしていたといいます。その日、テニアン島から発進したB-29は八幡のすぐ隣にある小倉を原爆の目標に設定していました。ところが、悪天候のため第二目標の長崎に移動、11時2分に雲間をついてプルトニウム爆弾を投下したのです。

 私は長崎の原爆記念日が来るたびにこのことを思います。もしアメリカ軍が第一目標である小倉に爆弾を投下していたとしたら、現在の北九州市一体はどうなっていたのか。そして、父の命を奪っていたかもしれない爆弾が長崎で炸裂したことに複雑な思いを感じるのです。

 今日の長崎市長の言葉にも政府に対する核政策への不満と怒りが込められていました。被爆国であることを私たちは決して忘れてはいけないと思います。そしてそれを伝える義務もあります。

 修学旅行で生徒を長崎に連れて行くと、現地の被爆体験者が当時のことを直接語ってくださいます。前回、訪れた時に案内してくださった方は、被爆時に8歳だったとおっしゃっていました。その方が、「私たちの世代でももう歩きながら被爆体験を話すということが難しくなっている。いつまで続けられるか分からない」と不安げにおっしゃっていたことを思い出します。被爆体験がない若い世代による伝承も行なわれているといいますが、その行く末は多難です。かくいう私自身も戦争をまったく知らない世代です。戦争に対する考え方が観念化し、不安定なものになっていることを私自身も実感するのです。

 ここ数年、国内外で戦争の気配を感じる動きがあり、戦争に対する抵抗感も薄れてきているように感じます。広島、長崎の日を単なる年中行事にしないよう私自身も語る側に回らなければならないと思います。