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古典を教える時に

 古典文学を教える時に中学高校の教師が陥りやすいのは、本文が完全に現代語に等価変換できると考えてしまいがちだということだと思います。もちろん、単語を教え、文語文法を教え、解釈の仕方を教えるということは作品が現代語に置き換えられるということを前提としており、実はどれだけ解釈しても分からないことがあるという前提には立ちません。テストも解釈可能という前提で作られています。
 しかし、古典を本当に読むことはそれほど容易なことではないと思います。言ってみれば古典を現代人の文脈のなかで折り合いをつけることが学校で教えている古典教育であり、それ以上のものではありません。「知ってるつもり?」と古人に言われそうな読み違いをしている可能性はいくらでもあるのです。
 中学高校の古典教育の最終的な目標をどこに設定するのかということにもよるのかもしれません。かつての古典教育は暗記、暗唱を旨としていました。意味、解釈以前にとにかく音として覚えてしまうことが大事でした。それが、いまは内容の理解という段階を重視しています。場合によっては本文よりも内容の方を重視しようという動きもあります。
 もし、これからも教育の目標を古典作品の解釈を中心とするのならば、逐語訳的な操作よりも、作品の時代背景や、成立当時の人々の価値観、人生観などにもっと踏み込んだ内容にするべきではないでしょうか。もちろん、そのためには地理歴史科などとの共同作業も必要になっていきます。文化を教えるという観点から古典文学をとらえるのならばいまの古典教育、さらにはそれを外側から求めている受験国語のあり方を変えていかねばならないではないかと思うのです。