はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

完了と存続

  古典文法を教える時、はじめの頃に生徒が混乱するのが過去と完了の助動詞が個別に存在することです。現代語では「昨日渋谷に行った。」も「今、渋谷に着いた。」も同じ「た」で表現するので区別はありません。古文には「行きき」「行きぬ」「行きにけり」など様々な形があり、その意味の違いの説明を求められます。過去は時間の経過を、完了は動作の終了を表現すると説明していったん分かってもらいます。
  ところが、しばらくすると完了と存続の助動詞というのが出てきてその区別が難しいと言います。「てしまう」と「ている」の違いと解釈の差で説明するといったん理解してもらえるのですが、実例に当たると区別がつきにくいものが多く、結局「文脈で判断ってやつですね」とひとりごちて理解を諦めてしまいます。確かにその通りなのですが、もう少し考えてみさせたいと思うのが本音です。
  「たり」や「り」といった完了、存続の助動詞は恐らく「あり」という動詞と何らかの関係があって、状態の確認や継続に中心的な意味があるのではないでしょうか。もしそうならばこれらの助動詞は存続用法が中核にあり、完了用法が派生したということになります。
  「ぬ」や「つ」といった完了の助動詞は別系統で「死ぬ」「往ぬ」といった動作の終了のイメージの濃い動詞との関係が深いのではないかと考えます。
  同じ「完了」の助動詞でありながら、背負っている歴史が異なるために解釈の傾向も異なると思うのです。