はてなの毎日

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発展の影で

 坑夫の歴史を垣間見て少々考えたことがあります。筑豊炭田に限らず、坑夫として働いた人の中には、他業に失敗してようやくたどり着いた職であったという場合が少なからずあったようです。生命の危険を冒してまで暗い坑道に立ち向かわなくてはならなかった人がいます。もちろん、中には強制労働をさせられた人もいたでしょうが、それは一部であり、多くは自ら坑夫の道を選んだ。もしくは選ばざるを得なかったのだと思います。

 強制労働をさせられた人々に対して、補償なりなんらかの手当を考えることはあっても、自主的に鉱山に入り犠牲になった人には一切の配慮はない。それでいいのでしょうか。自主的ということばの幅に絡め取られた個々人の生活があまりに大雑把すぎるのではないかと思うのです。

 歴史上の問題を考察する時、これと同じような問題が常につきまといます。人々の行動が時代の制約の中で起きている以上、どこまでが自主責任で、どこからが強制なのかの境界は実は大変難しい。そして、これは過去のことと考えているうちに、自分自身も同じような目に合うのではないかという脅威がちらつくのです。

 歴史的な発展の影で実はさまざまな人生模様が複雑に渦巻いているのです。