はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

記憶の曖昧さ

 私たちの生活は様々な記憶の蓄積の上に成り立っています。私が職業としている教育というのは、まさに記憶の領域そのものに働きかけるものです。歴史の事件の年号とか、数学の公式とか、英語や国語の単語や文法などは記憶の対象としてイメージしやすいものです。もちろん、文字化しやすいこれらの記憶の他にも、身体の動かし方とか行動の手順とか振る舞い方とかいう非言語的な記憶もあり、それらの総合で私たちは一定の水準の生活を維持できているといえるのでしょう。

 この記憶というものがどうも曖昧なものらしいことが、最近の脳科学の成果で裏付けられ始めています。科学的な証明がなくても私自身の経験からも記憶というものがいかに曖昧で危ういものであるのかについてはいくらでも例を上げることができます。喜びもまた苦しみも自分のなかである意味都合よく変化を加え、元の形とは異なるものになっているものです。しばらく開かなかったアルバムや、昔の日記や作文を偶然見つけて自分の記憶の誤りに驚くことがあります。そういう修正の機会があるものはまだいいのですが、ほとんどはそれさえありません。時間とともに変化をし続けることになります。

 そもそも、出来事が起きた直後からそれに対する記憶は事実とは異なる形で形成されていて、すでにその後の変化の糸口を開いているのでしょう。