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古典を教える意味を伝えなくては

 国語教育に対する考えを中学生に語らせると意外に素直な答えが返ってきます。国語の授業の中で役に立つのはプレゼンやディベートなどを行う授業であり、読解を中心とした授業はその次、そしてやらなくていいと思うのは古典の授業であるというのです。古典を将来使う機会があるのは研究者か国語教師、そのほかの人には無関係だと主張しました。

 これは自由に語らせるための授業の中で出てきたものであり、私はあえて反論なり自分の意見を述べたわけではありません。職員室に戻ってきて思いました。これは大切な宿題をもらってしまったと。生徒の大半は同様の考え方を持っているはずです。それどころか保護者も、もしかしたら教員にも同様の考え方を持つ人がかなりいるのではないかと。そしてその中には国語科教師も含まれているのではと。

 教育界にも即効性を求める風潮は大きく、とくに新しい教育観の示すアクティブラーニングの推奨の機運のなかで、教養的な要素の強い古典教育はその比重を大きく減らされようとしています。現在、文科省などが示している方針を読む限り、古典教育を否定する文言はなく、その重要性にも言及されているようですが、国語科が教養型から脱し、母語の基礎スキルの向上を担当する科目に変更されているのは明らかです。

 そんな中で古典文学を教える意味を国語教師は伝えられなくてはならない。どうして何百年以上の文章を読むのか、中国語さえ知らないのに古代の中国の作品を読むのか、その意味について語れなくてはならないと思うのです。しかも、それは「大切だから」「昔からやってきたことだから」などという抽象的なレベルではなく、また価値を共有する人に話す方法ではなく、価値を認めない人に説得する方法で伝えられることが求められているといえます。その「哲学」がなければ古典は教えられなくなってしまいそうです。