はてなの毎日

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古典の授業は教養主義で

 古典教育に関しては試行錯誤を続けています。こんなことを思うのは、教えなくてはならないことは何かを考える機会が与えられているからかもしれません。入試に出るから教えるという大義が揺らいでいる教育現場では、古典にもアクティブラーニングを求める動きさえあります。でも、果たしてこの方向は正しいのでしょうか。

 国語の教育には言葉の知識とその運用法とを教える両面があります。運用法の中にも読解力だけではなく、表現力もあり、昨今はこの表現力の方に注目が集まっています。私の授業でも数年前の生徒に比べると授業中に発言したり、文章を書いたりする機会が格段に増えています。他教科でも同様の傾向にあるらしく、もじもじして何も言えないという生徒は少なくなりました。型を教え込むのでそれなりの格好はついている口頭発表をしたり、文章を書いたりします。

 しかし、現場の教員の多くが気づいているように、その内容の深度はあまり期待できません。巧みに表現しているように見えて内容が物足りないというのが今の生徒の現状なのです。そしてその責任の大半は教育の方法にあります。

 語弊を恐れずに言えば国語教育にはやはり「詰め込み」の要素も必要です。効率よくインプットをする時間を設ける必要を感じています。生徒にとっては不満の時間になるかもしれませんが、それがアウトプットの力になることは確かなのです。大切なのはそのバランスなのです。従来型の教育は知識の伝達だけに力を入れてきましたが、それでは表現力が伴わない。そこでまずは綿密な知識の伝達の段階を経て、それに対する批判的な思考をする時間を設けるという2段階を設けることが求められるのです。

 ただ、古典の教育に関しては私は知識伝達5に対して、それに対する考えの整理、発表の時間は1くらいの割合で構わないと考えています。古典の知識はむしろ現代を考える材料にもなるものと割り切って無理に生徒参加型にしなくてもいいのではと考えています。それには、一方的に教員が授業をしても生徒が飽きないという力量が必要になるわけです。私はそれが欠けています。これがこの論の説得力を貶めてしまうのですが。

 逆に言えば古典の授業を魅力的にするための努力をする余地があるということであり、教員としてのやりがいを感じる場面でもあります。なんでも周囲の状況に合わせようとする国語教育の現場の風潮に逆らい、あくまで教養主義の態度で古典教育を考えることができたら、そしてそのために各教員が工夫を凝らすことが許されるならば、古典教育はもっと充実することになるでしょう。