はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

作文の宿題をなんとかさせよう

 文章力を向上させるためには非言語的なものを、言語化するという過程が欠かせません。極端なものは名前さえないものに名前を与え、それを言葉のシステムの中に落とし込んでいくという過程が求められます。高度な哲学的な文章などではこのことが繰り返されるため、一見難解な文章になります。

 そこまでのことを要求しないにしても、自分の考えていることを文章にするのはけっこう骨が折れます。私は毎日、ブログを書いているのですがどうしても書けなくて困ることがあります。それは書くネタがなくなったからだと思っていたのですが、どうもそうではありません。書くことはいくらでもあるのですが、それが言語化できないまま時間が経ってしまうことがあるのです。いったん言葉にする糸口ができれば次々に言葉がつながります。

 文章を書く力は非定型な自分の思いを言葉にし、型にあてはめてそれを文章化していくことにほかなりません。この型に当てはまらないものは文章化することは難しく、多くは抜け落ちます。そこはまた別に考えることにして、文章を書く力を生徒につけさせるためには、自分の思いの言語化と文章の型の伝授とそれを使いこなす練習の積み重ねが必要ということは言えると思うのです。

 この時期ですと読書感想文の宿題がよく出ます。書けなくて困っている子どももいます。そこで文庫本の最後についている解説をパッチワークして書いたり、最近ではネット上にあふれる他人の「感想」を失敬するというデジタル剽窃も当たり前になっています。感想文を書かせる目的は個人の生の感覚を文章化させることにあるのであり、立派な文章を提出することではありません。その意味でこれを安易に表彰することには個人的には抵抗があります。

 ところで、感想文が書けないという生徒の多くは、自分の思いを言葉にできず、さらに文章に書くことも苦手なのだろうと思います。もちろんその前に本を読んでも書かれていることをイメージできないという段階も絡みます。これもまた別に考えます。今回はある本を読んでなにがしかの感想を持ったとします。感動した、面白かった、悲しかった、怒りを感じた、もしくはつまらなかった、などと何でもよい。それを文章にしなければ宿題は仕上がりません。

 自分の感想を書くためにはそれを表す言葉がなくてはなりません。言葉の数が多ければ表せる感情も多くなります。言葉の数が少なくても比喩表現が使えれば表現の可能性は広がります。何事も「すごい」「やばい」だけでは個人の思いは伝わりません。さらに、それを関連付けて話す必要があります。自分の感情が変化した要因は何か。どのように変化したのか、その変化は他人にも共通するのか、などの説明を手順を踏んで述べていくことによって文章は出来上がります。

 中高生の段階ではそれをある程度、型に当てはめさせることによって書かせていけばそれなりの文章が書けるようになります。文章にしさえすれば肝心の内容をよりよく考えることへ注力することができるようになります。たとえば今回の読書感想文は、

  1. 感動した(印象に残った)場面(部分)の簡単な紹介(全体の3割)
  2. 自分がどう感動したか(何が印象に残ったのか)の説明(4割)
  3. これを読む前はどう思っていたのか。読後の感動・印象が今後の自分の考え方・生き方にどういう影響を及ぼすと思うか(3割)

の型で書こうなどと指示すると、少しハードルは下がります。原稿用紙に割合の線を引いてそこに埋めさせるのでもいい。

 つまりただ書けといっても書けないのです。文章のセンスがないという安易な言い方は私は好きではありません。センスをうんぬんするのはもっと高度な文章についてであり、学校の宿題で求めているのは作家のようなプロの書く名文ではありません。誰でも書けるようなそれでいて意味が明晰な文章が書ければ十分なのです。

 作文の宿題に行き詰っている子どもがいたら、書き方の手順を字や図に書いて示してあげるとよい。すると意外にもそれらしく書けるのです。その際に親御さんは自分の考えや価値観を強制しないように、教えるのは型だけで内容は子供に任せるのです。たとえそれが矛盾した内容であっても。