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国語は授業では完結しない

 国語の授業の改革を考える中でいろいろ気づいたことがあります。国語のような基礎科目は授業の中だけで完結させるのは難しく、生活全般が教育の対象となるのではないかということです。これは実は当たり前のことですが、これまでは触れてはならないことでもあったのかもしれません。

 授業の中で教科書を読ませたり、意見を発表させたりすることが国語の授業の大半の活動です。同じ教科書を与え、それを読ませそこに書いてあることを聞く限りでは生徒は平等な立場で学ぶことができると考えてしまいます。しかし、同じ文章を読むのでもその背景にある経験や知識がことなれば読解できる範囲はおのずと変わってくるのです。いろいろな経験を積んだ生徒は、その経験に基づいた解釈をすることが可能ですが、それがない生徒は限られた情報で意味を把握しようとするだけです。少しでも知っている言葉がある場合はそれを手がかりにしていろいろなことを学ぶことができますが、それがなければ困難な作業が待ち受けます。

 本を読む前に生徒間の差がすでにあることを考えれば、教科書を読ませれば皆が平等に理解できるという幻想がいかなるものかを知ることができます。

 では、教員は何をすべきなのでしょうか。個々の家庭環境や家族の方針などについては助言はできても変えることはできません。また、中等教育のレベルまでくればすでに生徒の蓄積は相当なものがあり、その差を簡単に埋めることはできません。そもそもすべての生徒を同じ条件で教育するという発想こそが間違っているような気がしています。

 まずは経験や知識を得るチャンスを増やすことでしょう。教室にさりげなくおく、本や雑誌にメッセージを込めるという方法があります。現代社会が抱える問題を扱った資料を目に触れさせる機会を増やすのです。読書に対する興味をひかせるような工夫もいるでしょう。

 新聞の記事なども積極的に読ませたいところです。できれば教室に新聞があってもいいとさえ思います。芸能記事やテレビ欄しか見ない生徒が大半であっても、社会で起きていることに対する関心は自然と目に入るはずです。

 教員の「雑談」も意図的に経験値を増やす目的を考えて話したいところです。人に対する思いやりとか、自分とは別の文化を持つ人とのふれあいといった生徒が体験しにくい話を共有することが学力にも結び付きます。そういう経験をした生徒に話をさせるなどの相互学習も大切です。

 思うに国語教育は授業の中でだけでは完結しない。それが最近思うことです。