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文法の扱い方

 中学生に(現代日本語)文法を教えることに関してはいろいろな意見があります。文法を知らなくても普通に会話や文章作成ができているからそんなものに時間を割くのはおかしいのではないかという大前提論から、古典文法ならば教える価値はあるが口語文法は不要、主述の関係と用言の活用だけでいい。口語文法を教えることにさして価値はないがその後に学習する文語文法や、外国語学習に寄与することが大きいのでやっておくべきだなど、様々な意見があります。私は文法の指導はやはり必要だと考えています。

 文法を教えるとなるとどうも網羅的に指導することが義務のように感じてしまうところがあるようです。また、文法書によってあいまいな形容動詞の扱いや助詞の分類法などにこだわりすぎて、かえって初学者を混乱させてしまうこともあります。現在生きて使われている言語に、固定的な意味づけをしようとする営みには無理があり、文法は実態の大概を説明するものであり、その全部を描写するものではありません。国語学者はなるべく現実そのものを把握できる新理論の探索に情熱を燃やすべきだと思いますが、一般の学習者、まして中学生にはそこまでの精度は不要です。研究者が求める文法の理想と学習者のそれは違うのです。それは目的の違いなのです。

 中学生諸君が母語の文法を学ぶ意味は、私はあくまでも言葉の性質を知ることで読解や表現に生かす手段とすることにあると考えています。例えば日本語では主語と述語のあいだにさまざまな言葉が挟まり、それらが置き換え可能であることを意識させることは大切な文法教育事項と考えます。「私は東京の少しはずれにある区立中学校に通っています。」は「少しはずれにある・東京の区立中学校に・私は・通っています。」とも言えます。こうした膠着語の特徴は表現のバリエーションを考えさせるきっかけになります。しかもこの言い換えがまったく同義かといえば、実際にはニュアンスの差がある。「彼のことが好きです。」と「好きです、彼のことが。」の差は日本語が母語の話者にはわかる違いがあります。これらを意識させること時代に文法学習の意味があると思います。

 用言や助動詞の活用という現象も表現のバリエーションを広げるきっかけになります。人に何かを依頼したり、命令したりするときには通常は命令形を用いると教えるのですが、実際にはそうでもありません。例えば「走れ」は命令形ですが、学校の同僚はもたもたしている生徒に対して「走る」と叫ぶことがあります。命令形以外でも他人に動作を促すことができるのはどうしてなのか。そういう疑問がわくのは文法の知識があるからこそです。

 文法は表現のバリエーションを広げるためにも大いに役立ちます。その意味において私は目的を定めた上での文法教育の実施には意味があると考えるのです。