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小説を書かせよう

 国語科の教育の改革に大きな疑問を持っている人は多いと思います。大学共通テストの試行問題を見て危機感を覚えた人も多く、世間では多くの論評が出ています。私も同様の感想を持っています。そして現場にいるものとしてそれは深刻です。

 実用性を重視し、大量の情報を短時間で把握する力を身に着けるというが今回の試験の到達目標に見えます。情報過多の現代において必要な知識であることは確かです。たくさんの図表やグラフを参照して、書き手(正確には出題者)の意図をつかむという手順はこれからの社会に求められます。でも、これはもうすぐAIがやってしまう分野のことではないでしょうか。

 情報処理のような数的処理のできる分野に関してはコンピューターの能力に人間はとてもかないません。もちろん機械処理が正当な手順で行われ、有意な分析を行っているのかを検証する力は必要なことには変わりありません。しかし、それだけに注力するのは危険です。書かれていることを処理するだけならば、それ以上の創造性は望めないし、批判精神も生まれにくい。

 相対的に文学の授業は減ると言われています。登場人物の心情を考えさせる小説の授業はしばしば答えのないあいまいなもので、無価値なものとさえ言われてきました。答えがないならば意味がないというのは少し前の実用書によく見えていた文言です。成功者を自称する人の著作にもしばしばみられました。その価値観がいま変わりつつあります。

 答えのあるものに関してはすぐに行き詰まりが見えてしまい、誰かとの比較において序列が形成されてしまう。自分が何十万位とか何百万位とかいうランキングを見せられてうんざりして先に進めない。これが世界単位になった現在、その数字はもっと大きなものになります。クラスで下から何番目ということでやる気をなくす子どもが世界中にできてしまうようなものです。

 答えのないものに関しては限りない可能性があります。またその中には現状を打破する新しい考え方も生まれてくるかの知れません。はやりの言葉でいうのならイノベーションです。そういう可能性を秘めているのは物事を深く考え、人の心を読む力です。機械には最も苦手な分野であり、そこに未来の人間の存在価値が残ります。

 その意味で文学の学習は有効な手段の一つといえます。ある作品の理解を通して、そこに様々な人間の心理の在り方を探求していくのが国語の授業のユニークな役割といえるのではないでしょうか。私は高校においても小説や詩を読む授業が必要だと思います。ただ、教師(正確には権威的な読み方)の考えを押し付け、それをテストで書かせるような授業では意味がありません。あくまで生徒に考えさせる授業にしなくてはなりません。

 すると、答えがない、浅い達成度で終わる危険性がある、クラスによって結論が異なる、評価の仕方が難しいなどの問題が出てきます。均一で平等な教育を行うという現在の教育の基本においてこれは最初に避けられるべき内容であり、いまも意欲的な教員以外では取らない手法です。しかし、これこそ未来の国語教育の根本に据えるべきだと考えるのです。

 文学教育の目的は作家や詩人を育成することではありません。しかし、詩を説明しようすると限りなく作者の意図が失われていくことを私たちは経験的に知っています。百人一首の歌を現代語訳してみるとどうも元の作品とは違うものになっている。詩の言葉は詩でしか解釈できないのかもしれません。小説の読解にしてもそうです。論理的な説明がきちんとできることは大切なのですが、説明してしまうとどうも作品の世界から漏れてしまうことがあるのは確かです。

 そこで私は生徒に小説を書かせることを提案します。例えばある作品の登場人物になって二次作品を作らせるのはその簡単な方法です。あるいは作中では脇役である人物や、実際には登場しない存在を設定してその視点で作品をとらえなおすということをさせることに意味があるのではないでしょうか。この方法は実は一部の教材で行われていますが、多くの場合は単発的に終わってしまい、成果を次につなげることができていません。生徒が書いた二次小説を互いに評価しあったり、さらにリライトさせるような時間が作れたならば、情報処理以外の国語能力を伸ばすことも可能ではないか。そして、それこそがこれから必要な国語能力なのではないかと考えるのです。