はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

ストーリーとしての把握

 丸暗記ができなくなる年齢がどうもあるようです。子どもの頃いやというほどやらされてきたとにかく覚えるという行動が最近はほとんどできません。

 職場では半年に一度、パソコンやソフトのパスワードをかえることと決められています。英数取り混ぜて8文字以上で、そのうち一つは指定されたもので変えられません。これを覚えるのが一苦労です。無意味な文字の羅列ほど覚えられないものはありません。ある時この文字列に勝手な意味づけをして、短い文にすることに成功しました。するとそれ以来パスワードを間違えることがなくなりました。

 記憶する際にはフレーズではなくストーリーとして覚えた方が効率がよいのかもしれません。私たちの記憶の大半はストーリーか、その断片として収められているような気がします。そのストーリーが全くたどれなくなったときに忘却の危機に瀕する訳です。

 教えるときにもただ用語を伝えるのではなく、それに纏わる因果関係を併せて伝達することが回り道のように見えて近道なのかもしれません。

物質としての感情

 脳科学の関係する本を読む機会が増えています。自身も家族もそうしたことに関心を持たざるを得ない環境にあるからでしょう。それらの本に共通するのは、感情という身体とは一見独立したものとみられがちなものが実はきわめて身体的な要素であるということです。

 様々な感情は体内で活動する物質のやりとりで形成されるといいます。ある物質の流量が増減することで感情が変化することはかなり前から知られています。それがより緻密になり、複雑なメカニズムが少しずつ明らかにされつつあります。

 研究が完成すればやがては感情の定量化がなされるかもしれない。現在でも抗うつ薬などで利用がある脳に働きかける薬物がより広く使われるかもしれない。などと妄想は広がるばかりです。

 感情が複数の物質の配合率で決まるならば、いったい自分とは何なんだ。そういう思いが再び立ち上がります。自分はアドレナリンでもドーパミンでもない自分なんだと言いきりたいと思います。その感情もまたいくつかの物質で構成されているかもしれない。私の混乱は止まらなくなるのです。

背筋痛

 運動不足と寝相の悪さとが原因で昨日から背筋に痛みを感じています。特定の方向に捻ると痛みが発生するようで厄介です。体調の維持には今まで以上に留意しなくてはならない。そんな年齢になっているのです。

道徳の準備

 来年度から道徳という授業が変わります。教科書もいままでの参考書扱いから教科書になりました。道徳が授業として行われるとなると様々な議論があります。ただ今回の場合、ほかの授業とは異なるのは専門の教員が行うのではなく、すべての教員が行うということにあります。教科書に書かれていることをそのまま伝えるだけではすぐに飽きられてしまいます。読めばわかることを授業でやる意味はあまりありません。どう具体化するか、個人に惹きつけるかが大切です。

 それには準備が足りません。私は国語を普段教えているので、国語的な授業の方法で扱えば格好はつきます。ただ、それでいいのか。道徳で求めているのは何なのかをもう少し勉強しなくてはならないと思っています。

答えるのは登場人物の心情ではなく

 国語の問題にはしばしば登場人物の心情を問うものがあります。間違えてはならないのは聞かれているのは登場人物の本心でも、作者が登場人物に託した心情でもないことです。人の気持ちなんて分かるはずがないという素朴な疑問は正しい。それを聞いているのではありません。

 目には見えない心情は言葉や行動となって初めて感知できるものになります。作品中には心情を表現するための様々な表現がおかれる訳です。国語の問題づくりはそうした表現を集めるところから始めます。大抵は作品の一部分を切り出すことになりますので、その中で整合性のあるものに絞っていきます。

 作られた問題は結局、出題者が登場人物の心情を説明する際に根拠としたものを探すという形にならざるを得ない。書いてあることを根拠にして解答することが求められるのはそのせいです。

 原作者がこんな気持ちではないと異議を唱えても国語の問題としては揺るがない可能性が高い。切り取られた場面の中で使われている表現しか使えないとすると、どうしても作品全体の世界観とはずれが生じることになるはずだからです。

 国語の問題は既成のテキストを使いながらも、結局は読者の一人である出題者の読みを追体験することが求められていると言えるのです。

自己分析

 本当に分かっていないのは自分自身ではないかという内容の本をいくつか読んでいます。確かに自分が何者であるのかを把握することは難しい。自分が社会の中で果たしている役割と、その役割を終えた後の自分のあり方とがイメージの中でうまく分離できないのです。

 自分は自分、ありのままで、というのは簡単ですが、何がありのままなのかを考えると再び進めなくなる。結局、自分が他人から見てどのような存在なのかを想像することで、自己の位置を確認しようとするのです。

 己を知り他者を知るという理想は、実は他者を知ることで自分を知る可能性に賭けるという方が実態に近い。歯がゆい何かが焦燥感の原因なのかもしれないと感じています。