はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

いまはもう秋?

 現在10時半ですが、気温が22度しかありません。これは戻り梅雨というよりは秋深まった感じがする陽気です。しかも今日は朝からかなりまとまった雨が降り続いています。パソコンが提供するForecaのデータによれば過去のこの日の最低の最高気温の記録は2003年の20度だとか。この年は日本では冷夏でしたが、欧州では猛暑となり多数の死者が出ていました。今年も欧州は殺人的な暑さに見舞われている地域があると聞きます。

 天候は循環するものとはいえ、短期的にはさまざまな弊害をもたらします。暑い季節がなければ都合の悪い展開もあるのであり、やはり普通の夏が待ち遠しく思うのです。

休息中

 盆の中日ですが、すでに墓参は済ませているので今日はゆっくりと過ごします。

 やらねばならないことがたくさんあってそれを先送りしているのですが、それもまた休みの意味であると勝手に納得することにしているのです。最近は睡眠が追い付いてきたらしくいままで分からなかったことが理解できるようになったり、気づかなかったことに気づいたりしてます。日ごろの劣悪なコンディションを思いやるとともに、そうであっても何とかしなくてはならないということを改めて考えるのでした。

 とにかく休息中ということで自己満足を決め込むことにします。

作文の宿題をなんとかさせよう

 文章力を向上させるためには非言語的なものを、言語化するという過程が欠かせません。極端なものは名前さえないものに名前を与え、それを言葉のシステムの中に落とし込んでいくという過程が求められます。高度な哲学的な文章などではこのことが繰り返されるため、一見難解な文章になります。

 そこまでのことを要求しないにしても、自分の考えていることを文章にするのはけっこう骨が折れます。私は毎日、ブログを書いているのですがどうしても書けなくて困ることがあります。それは書くネタがなくなったからだと思っていたのですが、どうもそうではありません。書くことはいくらでもあるのですが、それが言語化できないまま時間が経ってしまうことがあるのです。いったん言葉にする糸口ができれば次々に言葉がつながります。

 文章を書く力は非定型な自分の思いを言葉にし、型にあてはめてそれを文章化していくことにほかなりません。この型に当てはまらないものは文章化することは難しく、多くは抜け落ちます。そこはまた別に考えることにして、文章を書く力を生徒につけさせるためには、自分の思いの言語化と文章の型の伝授とそれを使いこなす練習の積み重ねが必要ということは言えると思うのです。

 この時期ですと読書感想文の宿題がよく出ます。書けなくて困っている子どももいます。そこで文庫本の最後についている解説をパッチワークして書いたり、最近ではネット上にあふれる他人の「感想」を失敬するというデジタル剽窃も当たり前になっています。感想文を書かせる目的は個人の生の感覚を文章化させることにあるのであり、立派な文章を提出することではありません。その意味でこれを安易に表彰することには個人的には抵抗があります。

 ところで、感想文が書けないという生徒の多くは、自分の思いを言葉にできず、さらに文章に書くことも苦手なのだろうと思います。もちろんその前に本を読んでも書かれていることをイメージできないという段階も絡みます。これもまた別に考えます。今回はある本を読んでなにがしかの感想を持ったとします。感動した、面白かった、悲しかった、怒りを感じた、もしくはつまらなかった、などと何でもよい。それを文章にしなければ宿題は仕上がりません。

 自分の感想を書くためにはそれを表す言葉がなくてはなりません。言葉の数が多ければ表せる感情も多くなります。言葉の数が少なくても比喩表現が使えれば表現の可能性は広がります。何事も「すごい」「やばい」だけでは個人の思いは伝わりません。さらに、それを関連付けて話す必要があります。自分の感情が変化した要因は何か。どのように変化したのか、その変化は他人にも共通するのか、などの説明を手順を踏んで述べていくことによって文章は出来上がります。

 中高生の段階ではそれをある程度、型に当てはめさせることによって書かせていけばそれなりの文章が書けるようになります。文章にしさえすれば肝心の内容をよりよく考えることへ注力することができるようになります。たとえば今回の読書感想文は、

  1. 感動した(印象に残った)場面(部分)の簡単な紹介(全体の3割)
  2. 自分がどう感動したか(何が印象に残ったのか)の説明(4割)
  3. これを読む前はどう思っていたのか。読後の感動・印象が今後の自分の考え方・生き方にどういう影響を及ぼすと思うか(3割)

の型で書こうなどと指示すると、少しハードルは下がります。原稿用紙に割合の線を引いてそこに埋めさせるのでもいい。

 つまりただ書けといっても書けないのです。文章のセンスがないという安易な言い方は私は好きではありません。センスをうんぬんするのはもっと高度な文章についてであり、学校の宿題で求めているのは作家のようなプロの書く名文ではありません。誰でも書けるようなそれでいて意味が明晰な文章が書ければ十分なのです。

 作文の宿題に行き詰っている子どもがいたら、書き方の手順を字や図に書いて示してあげるとよい。すると意外にもそれらしく書けるのです。その際に親御さんは自分の考えや価値観を強制しないように、教えるのは型だけで内容は子供に任せるのです。たとえそれが矛盾した内容であっても。

 

教科書に載っている古典文学(2) 奥の細道・平泉

 今回は松尾芭蕉奥の細道から「平泉」の段を<超訳>してみます。俳文と呼ばれる詩的な文体はそのまま現代語にすることを拒みます。今回はかなりの意訳を施して、なるべく原文の世界を写し取るようにしてみました。

 

 藤原三代の栄華はあたかも一眠りの間の夢のようで、平泉の館の南大門は約4km手前にあった。秀衡の居館の跡はすでに田野と変わり果て、金鶏山という築山だけが形を残している。私どもはまず高館に登って眺望すると、北上川は南部地方より流れる大河であると知る。衣川は和泉が城をめぐって、高館の麓でこの大河に流れ込む。泰衡たちの旧跡は、衣が関を隔てて南部口を固めて、蝦夷の侵入を防ぐ役目を果たしたものであると見た。それにしてもかの義経の選りすぐりの忠臣この城に立てこもり、功名をはせたもののそのままいまは草むらと成り果てている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の古詩を思い出し、旅の笠を敷いて、しばしそのまま時が経つのも忘れて涙を流したのである。

  夏草や強者どもが夢の跡

  卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良

 

 かねてから有名であった中尊寺の経堂と光堂が開帳されている。経堂は藤原三代の武将の像を残しており、光堂は三代の棺を納めて、阿弥陀三尊の仏像を安置している。仏法の七種の宝は散逸し、珠で飾られていた扉は風で破れ、金の柱も霜雪に朽ちて、すでにこのまま頽廃して空虚な草むらとでもなるはずのものを、建物の四面にできた鞘堂が新たに取り囲み、屋根で覆って風雨を防いでいる。これでしばらくは往古を偲ぶ形見にはなっているのだ。

  五月雨の降り残してや光堂

 

 この紀行文も結局のところ鞘堂同様に古の宝をいまに残す堅固な防御壁になっていることを芭蕉に伝えられたらと思うのです。

身体データ

 ここ十年くらいの身体検査のデータをエクセルに入力してグラフを作ってみました。身長は測定誤差の範囲で変化はないのは当たり前でしょうが、体重と腹囲は大きな変化があります。いったん減少し、今はまた増加傾向にあります。見た目の問題として今後はこれ以上増やさないようにしなければ。ただ、もっとも体重が減った年の翌年に私は倒れていますので、何事もほどほどがいいのでしょう。

 それより気になるのが悪玉コレステロールと血糖の問題です。基準値以内とはいえ高めで推移しているので要注意です。家系的にもよい要素はないので何とかしなくてはなりません。こういうことに気づいた分だけデータの見直しの意味があったと思います。

 といいながら最近飲み過ぎなのですが。

西瓜売り

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 牛久市の行商西瓜売り。売りものはかなり大きい西瓜です。ほどほどに売り上げはあったのか残りはわずか。ついに値下げも始めています。1500円だよ、とおやじは叫びます。
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 冷やかしの客がやってきました。安いねぇ。スーパーで買うのに比べたらとても安い。そこでおやじ、そうでしょ、いかがですか。冷やかし、安いは安いがこんなに大きくちゃもてあましちゃうよ。おやじ、もっともですな。その後も別の冷やかしがやってきて、同様の問答。おやじはいつになったら仕事が終わるのでしょうか。

終わらない終末論

 世界に終りがくると訴える終末論は、真偽の程の違いこそあれ、何度も繰り返されています。実際には終わっていないからこそ繰り返しがあるわけですが、それらに一定の力を感じるのはやはりどこかでそれらを恐れる気持ちがあるからでしょう。

 大地震の発生や小惑星の衝突といった不可抗力がその主因なのですが、こうした要素については予測できそうでできないという共通点があります。さらに突然起きる災難であるのにも関わらず、実は微細な予兆があるかもしれないと考えられることも似ています。

 これらの圧倒的終末論には劣るものの、国際紛争やテロによる終末論も繰り返されています。昨今は北朝鮮のミサイル発射という具体的な挑発がどのような結果に陥るのかが懸念されています。さしあたりもっとも確実性の高い恐怖は人間にあります。

 いずれにしても何が終末をもたらすか、私たちは常に恐怖を持ち続けています。