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町田ゼルビアに強力なスポンサー

 J2のFC町田ゼルビアをIT大手のサイバーエージェントが買収することになりそうだということです。ゼルビアは今季現在2位です。一時は首位にも立ったこのクラブは今季自動昇格圏内の2位を確保してもJ1昇格ができません。スタジアムや練習用グラウンドの規格がリーグの求める基準に達していないためです。地元のスポーツクラブから生まれ、地元企業の合同出資で運営してきたこのクラブに資金源はなく、チームの実力とクラブの運営力のギャップが問題になっていました。

 アメブロなどの人気コンテンツを有するサイバーエージェントがサッカーというコンテンツに展開したのには、バーチャルとリアルの接点をスポーツというもっとも分かりやすい興行運営で表現しようという意図が見えます。昨今、IT企業がこの手法で効果を上げていることも今回の動きにつながったのかもしれません。

 資金力が確保されたことはクラブにとって追い風です。ただ、町田はサッカー少年の夢を叶える地元クラブという概念を、東京で体現してきたというこれまでのいきさつを捨てるべきではありません。第3の東京のクラブというアイデンティティはゼルビアの生命線のような気がしています。スポンサーにはこのことをふまえていただきたいと願います。

なと思います

 「ほぼほぼ」「基本」「の体で」など流行語とも言えるような表現を最近頻繁に耳にします。「ほぼ」「基本的に」「のように」と言っていたものをそのように言うと今風になるからでしょうか。教員仲間でもごく自然に使う人が多数います。いわゆる造語ではなく、従来あった語の意味拡張もしくは誤用なので抵抗がないのでしょう。

 誤用ではないけれども気になる表現に書き言葉における助詞の使い方があります。終助詞の「な」は話し言葉的は雰囲気を強く持つので、少なくとも目上や不特定多数に当てた文章においては避けるべきだとされてきたと思います。ところが、「よいなと思います」「であるべきだなと考えます」という書き言葉の例をよく目にするようになりました。生徒の作文を添削しているうちに、意識に残り、大人の書いた文章の中にも見つけたのです。

 話し言葉と書き言葉の距離は時代世代によって変化しています。両者は今後接近していくのでしょう。「な」の挿入は文法的な誤りも意味上の問題もありません。ただ、書き言葉の持つ秩序というのか格というのか、名状しがたい何かを逸脱していると感じるのは私だけでしょうか。

 国語教師は言葉については適度に保守的であるべきです。少なくとも流行に乗って話したり書いたりしているか否かは意識できる感覚は保っていたいと思います。

雨続き

 今日も明日も雨の予報が出ています。私の場合は小雨では折り畳み傘を、朝から本降りの時は普通の傘を差すのですが、どちらも代わる代わる使っています。

 長期予報で西日本は暖冬の兆候があると報じています。猛暑のあとは豪雪になりやすいともいわれますが果たしていかがなものでしょうか。

 昨今の天候は予想外なことがしばしば起こるので、気をつけておかねばならないと思います。

文法を教える

 中学生に国語文法を教える際にいつも気になっていることがあります。成績のよい生徒でも文法の知識の定着には時間がかかるということです。直後に行うテストで満点を取っても、2か月後のテストでは忘れてしまう。

 それは必ずしも生徒の怠慢のせいだとも言えないようです。かなりの確率で多くの生徒がそうなる。普段の勤勉性とも無関係です。これは中学生の思考法、あるいは発達段階と関係があるのではないかと思っています。

 文節や品詞の概念や、用言の活用、さらには付属語の意味などは抽象度が高く、把握するのが難しい。呪文風に暗唱させたり、何度も書かせたりしても、実体なきものに記憶は残りにくいのです。

 文法教育を成功させるには生徒に言葉の仕組みについて興味を持たせることが欠かせません。「行く」に「ない」をつけたら、どうして「行くない」ではなく「行かない」なのか。こうした活用を私たちが瞬時にできるのはなぜか。「行く」以外の動詞でも同じように切り替えができるのはどうしてなのか。といった疑問に着目させ考えてもらうことが要るのです。

 そして、何よりも大切なのはこうした現象を自分自身の言葉で説明できるようにすることなのでしょう。抽象度の高い知識は自ら具体例に当てはめる作業を経過して身につくのだと思います。

 短時間でこうしたことを授業内で実践するのは難しいのですが、急がば回れの諺に従う必要を感じています。

誰かのために

 お客さんが喜んでくれたことがとてもうれしかった。学園祭を終えた生徒の感想文にそのような内容の文章が並びました。人のために何かをするという体験は生徒にとって貴重なものになるはずです。

 多くの知見が示すように私たちは自分自身の利益ばかりを考えて行動するときに間違えを犯します。利己的に振る舞ったはずなのに結局は自己の不利益につながるということがあります。

 利他な思考ができるか否かは人生の要素としては大きい。他人の立場を思いやることは実はそう簡単なことではありません。自分以外の存在を捉えることは難しいし、まして自他を俯瞰的に考えるのには高次元の判断力が要ります。

 他人のために働くという体験は、そういうことを具体的に考える機会として貴重なものだと思います。学園祭はその意味で教育的効果があると言えます。