銀杏黄葉
朝日に照らされた鮮やかな色彩が印象的な季節になりました。駅前から続く坂道を少し上った所にある公園の周りに銀杏黄葉が広がっています。その奥には楓や桜の紅葉も見頃を迎えています。
木枯らしが吹き出すまでは穏やかな暮秋の風景を楽しめそうです。
起業精神の種を育てる
組織の中でうまく立ち回れる人を育てるのがこれまでの学校の目的でした。これからはそれだけではなく、組織を作る人材育成も考慮に入れる必要性があります。
先日、会社設立のための支援機関を見学し、若き社長たちの声を聞くことがありました。自分の能力や趣味を活かし、他にはないサービスや製品を提供する小さな会社の経営者でした。電話と机だけの小さなオフィスを借りて、それでも夢やアイディアをもとに毎日を積極的に生きているようでした。
趣味ではなく、営利目的である以上、損益は常に意識せねばならず、出資者の賛同を得るために様々な努力を積み重ねていました。こういう人材を育成することもこれからの教育には必要だと感じたのです。
世間の動きを大局で捉え、やりたいことを分かりやすく説明し、実行に移す。そのプロセスで必要とされる基礎的な能力を伸ばすことこそ、学校でできることだと考えます。
もの離れ
キログラムの単位に関する既定が変更されるそうです。最後の実物基準であった重さの単位ももの離れすることになります。
長さ、重さ、電流、物質量などの基本的な単位は、本来何らかの実物を基準として測られてきました。しかし、実物基準だとそのもの自体の変化により、単位そのものが変化してしまうのだそうです。そのため、物理学的な理論を活用した理論値が新たな単位の基準として置き換えられてきました。
そのような中で重量だけはフランスにあるキログラム原器が基準になっていました。金属製のこの道具はなぜか年々重くなる傾向にあったとのことです。それが今年からはやはり物理学的理論値に置換されます。
物の単位が正確になることは様々な利点をもたらすようです。ただ、あくまでも感傷的なレベルの話として、実感できないはかりの単位にはどこか冷徹な感じがしてしまいます。恐らくその方が良いはずなのですが。
デジタル世代の車内学習法
電車内でスマホを見ている高校生のことをゲームに興じる不まじめな生徒とみなすことにはどうやら間違っているようです。
たしかにほとんどの生徒諸君はスマホでゲームをしているようです。中には熱中するあまりドアの前を占拠して通行の妨げになっている場合もあります。もっとも、これは大人も同様なので生徒のみを問題視するのは間違いです。しかし、スマホを利用する生徒諸君の中には勉強している人もいるのです。
スマートフォンにさまざま学習アプリがあるのはご存知のとおりですが、もっと安上がりの学習法があるのを今回見つけました。女子高生らしき彼女は自分の使う社会科の資料集と思われる写真を何枚も撮っており、それを画面上に再現して見ていました。自分用の電子書籍です。盗み見するつもりはなかったのですが、満員電車では自然に視野に入ってしまうのです。そして、このような満員電車の学習法としてはとても向いているのです。何しろ本を広げる余裕すらない混雑なのですから。
デジタル世代のスマートフォンの利用法は私ども考えることの斜め上をいっています。デジタルネイティブではない私からすれば、ジェネレーションギャップを感じざるを得ません。
実感すること
百聞は一見にしかず、やってみなければ分からないということがあります。私たちは情報検索の機能を手に入れたために、現地に赴くことなく何かを知ったつもりになることができるようになりました。でもそれはあくまで実体ではなく、幻影に過ぎません。
私たちが体験できることは限られています。時間も空間も自由に行き来することはできません。でも、できる限りで様々な経験を積んでおくことは想像力、創造力の基礎として必要なことなのです。
子どもたちに体験することの大切さを促すことは私の仕事の重要なポイントの一つです。
便利さと引き換えに
私も電子マネーを利用することが増えました。銀行の利子を超えるようなポイントがつくことが魅力で始めたところ、スマートフォンやウェラブル端末で決済が可能なことに利便性を感じ、いまでは財布を出さずに買い物をすることにすっかり慣れてしまいました。
海外ではこの支払方法が急速に発展しているようです。贋金が横行していた国ではその防止策にもなったようで、財布を出さずに買い物はむしろ国外の方が進んでいるという話もあります。この便利な機能ですが実は大きな代償を支払っているようです。
電子マネーの使用状況はネットワークを通じて収集されます。その管理者は誰がいつどこで何を買ったのかという顧客情報を一手に握ることになります。これでその人の行動様式や価値観、嗜好などたいていのことが推測できる情報が回収されることになります。そしてその情報がどのように利用されるのかは私たちには知らされません。
中国のような社会主義国ではこれが国家の中枢で管理されることになります。国民の動向がビッグデータとして日々集まることになります。これは社会主義国ではなくても実は同じです。巨大企業がその役目をするだけであり、やはり利用者は知らないうちに監視され、管理されることにつながるわけです。
何かを検索すれば、自分の興味のありそうな記事が先に掲載され、ほしくなりそうな商品の広告が選択されて表示される。そんな機会が繰り返されていくうちにあたかも世界は自分の興味を中心に回っているかのように錯覚する。どんどん周囲が見えなくなっていく。監視者の意向に少しづつ従っていくようになる。そんな危険性を今のシステムは持っていることを忘れてはならないでしょう。