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はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

落語の役割

 笑点という番組がゴールデンアワーに放送されるようになって、帰宅が遅い私でも視ることができるようになりました。出演者が随分世代交代しているのに、やり方が殆ど変わらないのはよいことだと思います。

 放送されるのはほとんど大喜利なのは少し残念です。当意即妙の小咄は確かにおもしろいのですが、私が聞きたいのは落語です。番組の尺に合わないのでしょう。また、落語そのものを楽しむのはそれなりの集中力というかのめり込みというかそんなものが必要なので、テレビ放送には適さないからかも知れません。

 落語は日本の口語文体の確立に寄与したと聞きます。二葉亭四迷夏目漱石などの明治の作家も落語の口調やその速記本を参考にして近代文学にふさわしいスタイルを作りました。その意味においてこの伝統話芸が果たした役割は大きい。

 口頭言語コミュニケーションにおいても、一人で多くの人物を演じ分け、聴衆を感動させる手法は大いに役に立つと思います。ICTに頼る前に話術の向上をはかることが大切だと思うこのごろですが、その際に落語は大きなヒントを与えてくれそうです。

国別対抗試合の難しさ

 ワールド・ベースボール・クラシックが開幕しました。日本チームは事前の強化試合でなかなか勝てず、目標の優勝は容易ではありません。別のブロックではイスラエルチームが韓国を破り番狂わせなどと報じられましたが、どうもそうではなさそうです。

 イスラエルチームの選手にイスラエル本土出身者はほとんどおらず、大半はアメリカで生活し、アメリカのプロリーグ経験者ばかりなのだそうです。メジャー経験者もおり、アメリカBチームと呼ぶのがふさわしい。奇跡ではなく実力で勝ったようなのです。

 国別対抗というやり方は実際には単純ではありません。別の競技でもオリンピックとサッカー、ラグビーではそれぞれ所属条件が異なります。日本のように圧倒的多数の民族が国家を形成する環境にいるとこういう事実に触れることはある意味大切なのかもしれません。

案山子

 以前書いたジュリアンが鳥に食べられる件は、その後も続きました。そこで割りばしにアルミホイルを巻きつけたものを鉢のへりあたりに指し、鳥よけとすることにしました。いわば案山子です。
 それ以降は今のところ鳥害はなくなりました。案山子の効果があったのか、春になって他の獲物が増えたからなのかは分かりません。とりあえず様子をみたいと思います。
 それにしても、いくら食われても次々に花をつけるのには驚くばかりです。

思考法の反復練習

 いろいろな方面で効率が論じられますが、学習においては効率よりも繰り返し対象と向き合うことが大事だと思います。同じことを繰り返しても時間の無駄ではないかという考え方はこの際捨てるべきだと思うのです。

 自分の中で比較的定着している知識や技能はいずれもかなりの回数反復し継続してきたものです。新しい情報はそのときには身についたつもりでも一定期間が経過すると消えてしまいます。情報の受容とはそのようなものであるらしく、これを留めることはできません。

 物事の考え方にしても同様で、まったく新しい思考法はすぐには定着しません。既存の思考法を応用することが今できることです。そのできる思考法をいかに確固たるものにしておくかが学習者としては大切なのです。

 情報の整理や記録はコンピューターに任せることもできます。それをどう操るかに集中して、思考法の反復練習に努めるべきでしょう。

十八番の選曲

 亡くなった恩師とは大学院生時代によくお酒をご相伴しました。また、そのながれでカラオケに行くこともありました。当時は個室型のカラオケはほとんどなく、店全体で一台の機械を共有していました。他人の歌も聞いていたことになります。恩師はいつも小林旭の「北へ」を歌っていました。先生の風貌や雰囲気からは小林旭的な雰囲気はなく、むしろ対局の繊細さをお持ちの方だったのですがどういうきっかけかこの歌を愛されていました。なぜその歌をお歌いになるのかはついにうかがえずじまいでした。

 私は歌はうまくはないのですが好きです。最初に年配の方々とご一緒した時に当時流行の歌謡曲を歌ったところ場違いな感じがして、演歌のメロディを歌うことを考えました。知っていたのが「影をしたいて」とか「悲しい酒」とかどうも皆さんの前で歌うにはふさわしくない(うまい人が歌えばよいのですが)ものばかりだったで、困っていました。たまたま家に内藤国男「おゆき」のレコードがあったので、これを覚えて歌ったところ、あまりほかの人が歌わない曲で被りが少なかったこともあって好評でした。そこで困ったときは「おゆき」ばかり歌いました。御存じない方はリンク先でご確認ください。

おゆき 内藤国雄 - YouTube

 当時まだ守るべき相手もいない若輩であった自分のこの歌は上っ面だったはずですが、とにかく先生や先輩そして周囲の同様の年配者の方々に受けることばかり考えていたと思います。

 最近は仲間内だけで閉じられた空間の中でのカラオケが大半なので十八番が自分基準で選ばれているようです。他人が知らなくても歌いたい歌を歌うことはもちろんよいことだと思いますが、十八番の定義が変わってしまったのは確かだと思うのです。

今週のお題「カラオケの十八番」

共通の思い出

 まったく時期も違うのに同じような思い出を持っている人に対しては親近感がわくものです。旅先での体験談などはその手の話が多いと思います。共通体験が成立するためには、変わらず同じことをし続ける人の存在が欠かせません。いつ行っても同じようなことをしている人がいるからこそ、その人にまつわる思い出を共有することができるのです。

 その意味で同じことをし続ける人を尊敬します。惑わされることなく自己のスタイルを保ち続けるのは進歩がないのではなく、逆に信念に基づく行動なのではないかとさえ感じます。

 昨今はあらゆることが多様化し、個々のニーズに合わせたことやものがあふれていますが、ばらばらになればなるほど共通の経験を求めたくなるのも事実です。そういうことへの配慮ができる社会になっていかなくてはと漠然と考えた次第です。

遥かなる万葉集

 学生時代に愛読し研究していた万葉集を最近全く読み返すことがないことにはたと気づきました。万葉集上代の人々の思いの詰まったものです。最近の研究ではあまりに国粋主義的な読み方が間違いであり、むしろ極東文化の中に位置付けて読むべきであり、しかもそれなりの文芸意識のもとでできた作品群であるとされています。

 そうはいっても現代の社会の在り方から比べれば遥かに素朴かつ素直な人々の在り方を映すものとして読み味わうことができます。あらゆるものに神を感じて畏れ敬い、人を思い魂を通わせる様はいつ読んでも深淵な空間をのぞき込むような感覚を抱かせるものです。

 時には万葉集を意味もなく読み返す、そんな心の余裕を忘れたくはありません。