はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

変化への対応力

 今朝はかなり寒さを感じます。冷たい雨が身体を冷やすのもさることながら、寒さの感覚の原因はここ数日の温暖な陽気との落差にあります。

 私たちの環境適応力は緩やかな変化には対応できても、急激な変化には脆い面があります。今朝の寒さも一月前のそれに比べればさほどではないはずです。要は急に気温が下がったことにあるのです。

 感情も同様の側面があります。演劇では緊張と緩和を巧みに組み合わせることが肝要とされます。緊張の連続だと、状況への耐性のようなものができてしまうので、わざと緩和する仕掛けを作り、そこからまた一気に緊迫のシーンを用意するという訳です。

 これは人間の性というべきものなので、完全に克服することは不可能なのかも知れません。ただ、そういう時には大局を考えることで多少救われることがあります。今朝の寒さは暖かい春に向かうための過程であるのだと思えば、当座は乗り越えられる気がするのと同じことです。

文法の習得時期

 中学生に日本語の文法を教える際に感じるのは、すぐに覚えてしまう生徒となかなか覚えられない生徒がいるということです。これはどうも単なる集中力とか努力の差とは思えません。真面目な生徒でも覚えられない生徒もその逆もいます。

 おそらく脳の発達段階と何らかの関連があるのではないかと考えています。なかなか覚えられなかった文法が、高校生になると意外にすんなり身につくことがあります。脳の発達には個人差があり、特に中等教育の年齢層ではその個人差が目立つのかもしれません。

 だから、文法がなかなか覚えられなくてもあまり気に病まなくてもいいのかもしれません。しかるべき時が来れば習得できるものと落ち着いて考えるのがよいということです。

ti問題だけでなく

 小学校で英語を教えるようになって日本語のローマ字表記の方法をめぐる問題がクローズアップされています。小学校では訓令式と呼ばれる日本独自の表記法が教えられています。これは50音図の仕組みをそのままローマ字に置き換えた考え方で、タ行は

ta ti tu te to

となるのですが、外国人の多くがこれを「タ、ティ、トゥ、テ、ト」と読んでしまうため、社会一般ではヘボン式といわれる、

ta chi tsu te to

が使われています。この方がまだ日本語に近い読みをしてもらえる可能性が高いということです。「つ」は日本以外の国ではあまりない発音らしく、韓国語や中国語にすら同じ音韻がありません。

 ヘボン式というのは明治学院の創始者のジェームス・カーティス・ヘボンという宣教師が、その著書「和英語林集成」という辞書の中で使っていた日本語表記法です。ヘボンペンシルバニア州出身のアメリカ人ですから、英語圏の人に日本語の発音を期待するにはヘボン式の方がうまくいくのです。例えば「町田」は訓令式ならMatidaでマティダかマッティダと発音される可能性がありますが、Machidaならばマチーダくらいで済みそうです。タ行以外でもザ行、ダ行、チヤ行などでもヘボン式の方が日本語に近い音を表せるようです。

 もう一つ大きな問題があります。それは長音の扱いです。日本語の特徴として伸ばす音を音韻として認識するということがあります。だから小野(おの)と大野(おーの)は別であり、鹿(しか)と詩歌(しーか)は区別します。韓国語を勉強した時、韓国には長音の意識が希薄であると知りました。中国語もないようです。英語も一見、coolやtalkなどで長音があるかと錯覚しますが、これは長音ではなく音韻の一つで、ある音を伸ばしているという意識はないそうなのです。そこで、長音をどう表記するかが、大問題となります。

 訓令式は日本語の長音記号と対応する記号を付すことでこれを克服しようとします。これは母音の上に ̄のような記号を付けることで、その音を2拍とることを表すというやり方です。しかし、これはコンピュータなどではの入力が難しく

大野 Ōno     詩歌 Shīka    中央 Chūō

などやれないことはないですが面倒です。端末によっては文字化けすることもあるそうです。そこで特殊文字を使わずに長音を表す方法が求められます。これは段によってやり方が変わり、

あー aa, ah  いー ii  うー uu

えー ei, ee  おー oh,  oo,  ou

 などがあります。これは語ごとの構造によって使えるものとそうでないものがあり、一層ルールが複雑になっています。

 韓国では人名のローマ字表記に関しては一定のルールはなく、自分が名乗りたいように名乗っていいそうです。朴さんはPark, Pak, Bakなど多数の表記法がありどれが正解というものでもないそうです。日本はパスポートはヘボン式で書かなければならないという慣例があり、それ以外の表記で書く場合は手続きが必要なようです。日本語を日本語以外の表記法で書くこと自体に無理があるのですから、これは割り切って考えなくてはならない。日本人が表記の仕方を決めて世界の人々に従ってもらうか、世界に合わせてその都度書き方を変えるかのいずれにするかということです。グローバル社会にふさわしい教育をするというのなら、この辺りは態度表明をしておいた方がいいかもしれません。

 ちなみにヘボン式を作ったヘボンさんの英語つづりはHepburnであり、Audrey Hepburnと同じヘプバーンさんです。ヘボンというのは自らが日本語化したカタカナ表記だったらしく、さらには「平文」という漢字表記まで考案したとか。一つの発音には一つの表記しかないと考える日本式の考え方はもしかしたら実態に合わないのかもしれません。

花咲く

 鉢植えのチューリップが咲きだしました。このところ、急にあたたかくなったせいもあっていろいろな花が咲きだしています。桜もそろそろほころびだしているので、来週あたりは風景が大きく変わりそうです。

配合率

 生徒の協働学習による効果は確かにあると思います。ただ、少なくとも中等教育においてはすべてを生徒任せにするという訳にはいきません。昨今のアクティブラーニング(以下ALとする)論の中には、教員は課題を考えそれを提示し、後は見守るだけでよいというものもありますが、さすがにそれは難しい。少なくとも中等教育の現場の意見としてはそれは無謀であり、無責任ともいえます。

 私はやはり集中して教員の話を聞かせて一定の情報を伝達する従来型の授業は必要だと考えています。ただ、その内容を工夫する必要があります。

 単元の始めは一斉授業で指導の目的と目標を明示します。さらに考え方の基本的な枠組みや手段を徹底して教えます。私の場合、国語科なので、文章のテーマ、構造、資料の扱い方などがそれに当たります。設問への対応方法なども教えます。この時点ではお仕着せの教育をします。

 ただ大切なのは既定の解答を暗記させる授業にはしないことです。これまでの学校国語の難点は結局、黒板に書いたことを覚えた方が勝ちという形式にあったことでしょう。伝えるのは解答そのものではなく、解答の方法です。

 次の段階で単元の核心に関する課題を与え、考えさせます。この時、グループワークを取り入れたり、学び合い、教え合いの機会を設定します。この回の授業だけを取り出してみればいわゆるALで教員はその存在感を消さなければよく、多少の脱線は黙認します。ただし、参加具合を評価するために各生徒の状況をメモします。

 そしてそれを確認するテストを設けて評価する時間を設けます。テストの形は口頭発表でも筆記でもよく、内容によってどちらかを選んで実施します。このテストは達成度を測るとともに不足分を補うためのきっかけとします。

 つまり従来型授業とAL型を組み合わせて行うというプランなのですが、この配合比率を考えなくてはなりません。私は原則として

  1. 一斉授業(1)
  2. 一斉授業(2)
  3. AL型授業
  4. テスト・まとめ・次の教材への導入

の4コマ一単位で考えてみたいと思います。これは教員が伝えたいことを生徒が実践できたかを確認しながら進められることや、一斉授業の内容を生徒同士で教え合うことや、場合によっては批判的な意見をあえて出させる効果もあると考えています。

 もっとも、ディベートなどの準備に時間がかかる内容を扱う場合はこの限りではありません。来年度はこの型で授業に臨もうと考えているのです。

節目 

 そろそろ3学期も終了します。生徒諸君にとっては節目の季節です。学年という人為的な時間を意識してもらうことで、成長もしくは変化を自覚してもらいます。
 通知表のコメントには、この一年がいかに意味あるものであったかを思い出してもらい、次なる局面に入る自覚を促すのです。
 毎年のことですが、教師の仕事の中でも大切な時の演出であると考えています。

自己卑下という段階

 日本の教育における内省の風潮は、しっかり生徒にも伝わっています。ただ、少々誇張されているようであたかも日本型教育が弊害であるかのように語る者さえいます。行き過ぎた自己卑下は様々な問題の源になると考えますが、私はそれもまたこの国らしい一面であると思います。

 確かに日本型教育への批判の多くは当たっています。特に答えなき課題に自主的に取り組むという能力への配慮は疎かになっていました。既定の目標にいかに近づくかという方面では素晴らしい能力を発揮するものの、新しい課題を発見し、解決するという分野は未開拓のままです。

 恐らく戦後の復興とそれに続く成長期においては日本型教育は素晴らしく効果的であったといえます。国民全体の学力と生活力を少しずつでも確実に上げることができたのですから。戦後の社会に不可欠な良質な市民を短期間で育成したのです。

 しかし、経済成長が鈍化し、円熟期を迎えたといわれる現代の我が国では平均的水準を上げるだけでは立ちゆかず、現状を打開するアイディアが求められるようになりました。

 そこで従前の自己卑下が現れます。いままでのやり方は間違っていたという考えです。明治に日本に訪れた外国人の知識人は当時の日本人が過去の歴史を全否定する風潮を訝しく思ったと言われています。新しい局面に入った時、過去の蓄積と容易に決別してしまうのは日本人の基礎的な思考形式です。さらに言えば、新しい考えに切り替えると言ってもそこにはしっかり和風が残されるのです。

 教育の改革についても同様の経過をとるのではないかと無根拠に考えています。アメリカ型、北欧型の教育そのものが我が国に根付くのではなく、しっかりと新日本型が生まれると楽観視しているのです。ただ、その過程には幾多の困難が待ち受けているかは分かりません。

 変化の予兆は飛び上がる前に腰を屈めている状態なのでしょう。