はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

耳が痛い日本人論

 日本人論の中には自虐的史観によるものもあります。明治の知識人の一部はそれまでの歴史を全否定していたといいます。太平洋戦争後の世相もそれ以前の社会のあり方を否定することから始まりました。

 最近の社会論でも日本型の組織構成や運営管理方針について否定的に論じることが多くなってきています。従来のように発展が目に見える時代ではなくなったために、これまでの方法ではたちゆかない、超高齢社会の原因も、それがもたらす種々の弊害もすべてはこれまでの社会のあり方に原因があるとする考え方です。

 日本人論の多くは結果分析であり、過去の社会への批判です。そのため思い当たることは多く、歯がゆい気持ちになるものもあります。ただ、これはある程度は必要であり、反省が次につながるのです。日本人は特別だとか、優れていると無根拠で説く書物は疲れたときに読む清涼剤以上の働きは期待できません。むしろ、辛口の自己批判こそが次の展開へのきっかけになってきたのです。

 そういうつもりで日本人論は読むべきであり、それが可能な限りは存在意義があると思います。

コバンソウ


f:id:letswalk:20170429065825j:image

 コバンソウはもともと帰化植物だったようですが、いまではありふれた雑草です。ただ、その形状が小判のような花穂であるのが、特別扱いを受ける要因になっています。

 駅の土手で数株を見つけました。そういえば、これを鉢植えしている人を見たことがあります。確かにそうしたくなる魅力があります。

藤の花

 今頃の時期に楽しみにしているのが藤の花です。藤棚に丁寧に整えられた藤もよいのですが、崖から垂れ下がるように咲く野生の藤は特に見所があります。

 神社の境内に古い藤の大木があるところもあります。富山県氷見市にある藤波神社には立派な藤があります。万葉集に詠まれた家持の藤とゆかりがあるといいます。境内を覆い尽くす古い藤の樹は神威を感じさせる何かがあります。

 通勤途中の床屋の店先に並べられた鉢の中で咲く藤も今が満開です。都会の片隅に確かに一つの世界を作り出しています。

 それぞれの藤の木が作り出す空気が初夏の楽しみな風景なのです。

他所でよかった

 今村復興相が自身の発言内容の不適切さを理由に辞任しました。東北が震災の被災地になったことを首都圏で起きるよりもまだよかったという内容の発言が、被災地に対する無配慮であり差別であるとの指摘に耐えられなかったのです。この大臣はほかにも失言、訂正、謝罪の例があり、政治家としての資質が足りなかったという批判もあります。

 この発言は動画としても公開されており、東北地方を貶める趣旨で述べられたものではないことは確認できます。しかし、結論はどうであれ、現に多くの被害者を出した大震災に対する発言としては明らかに不適当です。

 他所でよかったという発言の真相には、災害はどこでも起こりうるという深層心理があるからといえます。微細な地震も含めれば全国各地で毎日起きており、東北の地震はその一つにすぎません。それだからこそ、他地域のことは他人ごとではなく、己のことととして考えるべきなのです。

 自分の関係する世界を小さくまとめ、他を別の空間のように考えるのは日本人の困った習慣です。今村さんの失言の背景にもこれがあると考えます。ダメな政治家だけの話にとどまらないことが今回の件の恐ろしいところだと思うのです。

アクティブ・ラーニングの誤解

 生徒同士が教え合い、学び合うことの学習効果は確かにあると思います。活動を通して様々なことを獲得できる効果もあります。ただし、それが万能ではないことも明らかです。

 解決すべき課題が生徒と何らかの関連性があったり、興味のあるものと結びつけて考えられる課題ならば、協働学習の効果は期待できます。一方、生徒の生活や知識の範囲外の課題に関してはそのままでは知的進展は望めません。

 教員による一つ先の世界への導きはその意味で大切です。新しい局面まで引き上げた後は、再び話し合いでもよい。教員に求められるのは、知の獲得の過程を演出することであり、それには技能と経験が要ります。

 新しい知を獲得するためには精神的な環境づくりも欠かせません。学びの効果をあげる様々な環境をコーディネートするのが教員に求められる仕事です。

ミサイルというつながり

 アメリカ軍の空母艦隊が北上しています。北朝鮮の一連の軍事行動に対する牽制のための措置と報道されています。アメリカ大統領の人間性に信用がおけないまま、日本のすぐ近くで軍事衝突が発生する可能性があることになります。

 北朝鮮政府は軍事には軍事で対応すると言いきっています。アメリカのみならず、同盟国にもミサイル攻撃をすることをほのめかしており、東京もその候補のようです。どれほどの精度で目標に命中させる能力をもっているのか分かりませんが、国際社会から孤立した国家が世界的な視野を持っていることは期待できません。破れかぶれの攻撃を仕掛ける可能性はないとは言い切れないことが恐ろしいです。

 さて、国交のない北朝鮮とわが国の距離を何をもって測るかとなると、最近はどうもこのミサイルの射程距離のように感じます。これが届くか否かが基準になるというのは何とも残念な関係です。

現実の描写

 ナビ派の絵画を観て感じたのは現実を描くことの深遠さです。何かの絵を描くということは果たして対象の図形を紙面に再現することなのか、それとも対象から得られた表現者側の心象を描くことなのかということです。

 絵画だけではなく、文章表現においても同様の疑いがそのまま当てはまります。事実の描写というものがそもそも成り立つものなのかを改めて考えると話はさほど単純ではないことに気づくのです。

 同じものを見ても、同じ体験をしても、結ばれる映像や言葉は個々人で異なる。まずはその点の確認から始めなければこういう問題は分からない。最近は情報化のあまり、思考や行動までもが類型化もしくは画一化されています。自分の求める回答は検索すれば分かると信じている。

 でも、やはり自分以外の見る世界は何かが違うはずです。現実とどう向き合うのかが大切であるという、あまりにも根本的な確認を意識する必要を感じるのです。