はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

教科書に載っている古典文学(1)児のそらね

 自分の勉強もかねて教科書に掲載されている古典文学の現代語訳を時々書くようにします。今回は今教えている宇治拾遺物語の「児(ちご)のそらね」です。ここでいう児とは貴族や武家の子どもが社会勉強の一環として寺院に預けられている時の名称のようです。先輩の僧たちが児に対して敬語を使うのはそのためだと考えられています。子どもなりに配慮してはみたものの、やせ我慢も限界がありかわいらしくぼろを出してしまうというオチは現代人にも注釈なしで理解できます。

 授業ではここまで崩してはいけないという限界を設定しますが、このブログではあえてそこを超えてみます。つまり、これでは満点は取れない超訳(昔そういう翻訳本が売れました)でお伝えします。

 ブログをお読みの皆さんには中高生の古典の授業を思い出していただければと思います。

 

 これももう昔のことになるが、比叡山に見習いの児がいたとか。ある日、その寺の僧侶たちが宵の手持ち無沙汰の慰みとして、「さあ、ぼたもちを作ろう」と言ったのを、この児はうれしく思って聞いた。とはいっても、出来上がるのを待って寝ないでいるのもよくないだろうと思って、僧坊の片隅に寄って寝たふりをして、出来上がるのを待っていたが、しばらくすると、すっかり出来上がった様子で、僧たちが集まって騒ぎあっているのが聞こえてきた。

 この児は、きっと起こしてくれるだろうと、待っていたが、その時ある僧が、

あのよろしいですか、起きてくださいませ」

と言うのを、嬉しく思ったが、すぐに一度で返事するのも待っていたのかと考えられてもいやだと思って、もう一声呼ばれてから答えようと我慢をして寝ているふりをしていると、

「おい、起こして差し上げるな。幼いこの方は寝入っておられるのだ」

と言う声がしたので、ああ困ったと思って、もう一回起こしてくれと思いながら寝たふりをしたまま聞いていると、むしゃむしゃと、ひたすら食べ続ける音がしたので、どうしようもなくて、かなり経ったあとで、

「はいっ」

と答えたので、僧たちは爆笑したのであった。

 

 有名な話ですが、私の中で解決できていないことがいくつかあります。まず児が寝たふりをしている場所と、僧たちがぼたもちを作っているところの位置関係です。私は大きな僧坊で数人の僧侶とこの児が共同生活をしていたと考えているのですが、自信がありません。もしそうならば極めて近いところでぼたもちが作られていたわけですから、児のがまんがならないのも理解できます。

 もう一つは僧が児の狸寝入りを見抜いていたのかどうかです。もし、見抜いた上の言動ならば児子へのからかいが背景にあることになります。私としてはその方が面白い話になると思うのです。児は僧侶の世界では現代のわれわれには信じがたい役割を演じたようですが、この話の児は身分違いの扱いをされていることからして、僧たちには手の届かぬ人の子息と考えるのですが。

 古典作品は情報不足のため帰っていろいろな解釈が生じるところが面白くもあります。

 

こどもの視点

 私が入学した小学校を先日訪ねてみました。さすがに校門の中に入りませんでしたが、懐かしさを通り越して不思議な感じがしたものです。

 じつはこの小学校は坂の上にあるのですが、記憶ではそれほど急ではなかったはずなのに、この時はかなりの急坂に感じました。また近くにかかる歩道橋はもっと大きかったはずなのにとてもこじんまりとしている。

 こどもの時の記憶はかくもあいまいなのですが、それはおそらくその視点とも関係があるかもしれない。そう思って当時の身長辺りまでかがんでみるとなるほどもっと大きく見えるような気がしたのです。一方坂道の方はひょっとして体力の変化が関係しているのでしょうか。

綿帽子

 昔は捨て置けなかった綿帽子が今日は気になってたおって一吹きしてみました。見事に飛んで行く綿毛たちははたしてどこまで行くのやら。懐かしい疑問を思いだしてしまいました。
f:id:letswalk:20170504172450j:plain

戦闘機

 このところ戦闘機が訓練飛行することが増えてきた気がします。結構な爆音がするので実は少々迷惑しています。極東の国際情勢は近年ではもっとも不安定な状況にあるといえると思います。それに連動しているのでしょうか。

 私たちが今の生活を享受できるのは平和あってこそです。それを守るための手段とあらばある程度は仕方がないのかもしれません。しかし、肝心なのは外交の力を発揮することです。安易に兵器が利用されることがないよう願います。

暴走抑止装置

 このところ高齢者の運転ミスによる惨事が相次いでいます。自動車の運転は高次元の判断を要することであり、高齢化とともにそれに対応できなるのは残念ながら宿命といえます。それならば免許に定年制を設ければよいという意見もあるようですが、高齢運転者の多くは趣味というよりは生活のために運転しているのであって、移動の手段を奪うことはさまざまな問題を発生させます。

 この問題を解決するためには、なによりも高齢者が運転しなくてもよい環境を作ることがよいと考えます。コミュニティバスやタクシーなどが今まで以上に発達すれば、運転しなくてもいい人が増えます。実際に地方都市に行くと買い物や通院のためにバスを使う人の姿をよく見かけます。ただ、これにも限界があります。運営コストをいかに抑えるかが当面の課題ですが、必要な時間帯に走っていなかったり車両が旧型で高齢者の乗車に適していなかったりする問題があります。

 どうしても運転が必要な人もいます。特に介護を要する人が移動の手段にする場合は、公共の乗り物の利用が難しく、老いた家族が老いた要介護者を乗せるというケースが多くみられます。老老介護の問題はこれから多くの人が直面する問題です。このような場合、運転は必要に迫られて行っているのです。

 AIが果たす役割に関してはシンギュラリティの問題として一種の恐怖感とともに語られることも増えてきましたが、自動車の自動運転に関しては期待するところがあります。高齢者でも安心して乗れる、そして事故を起こさない自動運転車ができれば、毎日のように起きている悲劇を防ぐことができるかもしれません。

 その一歩手前でも、たとえば自動車に「シニアモード」なる設定ができる機能を付け、最高速度を制限したり、音声による警告や自動制動などを付加することは比較的実現しやすいのではないでしょうか。車体に高齢者マークをつけることは行われていますが、車自体を高齢者モードにしてしまうということを提案します。スイッチで切り替えられるようにすれば、これからの時代需要があるのではないでしょうか。

 私自身もいつまで運転できるかと思うと不安になることがあります。その意味で運転しなくてもいい社会ができるとよいと思います。

連休谷間

 ゴールデンウイークなどという名前を付けられても実際になくなるのは金だけというなんとも皮肉屋な気分に落ちている私です。今日は連休谷間で仕事もあり、そこそこに忙しい一日になりそうです。

 気が付いてみれば家にいるより、職場にいる方が気持ち的に楽であることが多い。これは立派な仕事中毒だと自認しているわけです。連休谷間の今日は職場でむしろ楽しいことをしてやろうなどと考えています。