梅雨明けとは言えないのか
梅雨前線が完全に北上しきらず、九州北部に継続的に雨を降らせている現状では梅雨明けとは言えないことは分かりますが、関東地方は連日真夏日となり、強い日差しが照りつけています。薄い雲がかかっているような感もあり、夏本番とは言えませんが、やはり梅雨とも思えません。
春の後に梅雨があり、それが終わると夏が来るという考え方自体が現実と異なっているのかもしれません。気候の変化は様々な形で現れますが、これもその一つなのでしょうか。
晴ときどき採点
定期考査の採点作業はなかなか進みません。いろいろとやらなくてはならないことがあり、机にも迎えない始末です。採点は集中力がいります。こういう時はある程度機械がやってくれてもいいのになどと思ってしまいます。それではいけないのですが。
とても暑い日が続いているのがうらやましくも恨めしくも感じるのです。
消せない筆記用具
かつて文字を書く筆記用具は筆で書くしかありませんでした。それが万年筆になっても基本的には同じです。ところが鉛筆が登場したことで書き直しができるようになりました。何度でも書き直せるという事実はノートの紙面のあり方を変えただけではなく、思考の方法も変えたのではないかと言われています。
この傾向はワープロの登場でさらに大きな変貌を遂げます。何度でも書き換えられるだけではなく、準備を入れ替えたり、同じフレーズを再利用したりすることも容易になったのです。私も文章を書くとき、思いついたところから書くという方法をとることが多く、アウトライン機能を使って順番を全く入れ替えてしまうことをよくやります。
訂正可能な筆記手段は大変便利なものなのですが、これには批判的な意見もあります。いつでも消せるという前提が思考力低下を促しているのではないかという懸念です。論理の行方を想定せずに考えたり、書いたりするのでは脳内で論理の全貌を把握しようとする意志が働かず、結果としてよく考えないで書くことが常態化してしまうという訳です。
最近、私は授業準備のノートを万年筆で作成しています。もちろん修正テープはよく使うのですが、それでも大幅な変更はできないので、少し考えてから筆記する癖がつきました。また、既に書いたことを消さずに残すことを思考の過程を保存したと割り切るようになってきました。少なくとも手書きの段階においては、このようなものの考え方の方がよいのかも知れないとも考えるようになっています。
とはいえ、このブログは携帯電話で書いており、ここに至るまで何度か書き換えもしています。手書き、推敲、清書という作業はいつでもできる訳ではありません。ただ、思考力の涵養という一事においてはときには万年筆なり、ボールペンなりで文章を書くことは欠かせないのではないでしょうか。
看板掛け替え
近隣のサークルKが休業し、ファミリーマートへの業態変更のための改装が進んでいます。同様の風景は各地で見られており、サークルKサンクスが消滅する日が近づいているようです。
新しい店ができることには、通常何らかの期待感が起きるものですが、コンビニチェーンの一店舗として個性のようなものはあり得ません。どこにでもあるようなものができるだけです。グループとしての共通サービスの利便性を享受する以外のことは望んではいけないのでしょう。
せめて店員の応対が丁寧で心がこもっているといったことでもあればとわずかに期待するのです。もっともバイト店員がマニュアルに従って、機械のような挨拶をすることになるのは明らかなのですが。
思えばつい最近までの曖昧な業態は個性的でした。