はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

AIに負けられない

 人工知能のシンギュラリティはいつなのかという関心は常につきまといます。AIを開発している人にとって見ればそれは少しでも早くしたいでしょうし、私のような臆病者にとってはAI時代以降の社会変革いや革命が恐ろしくなるべくなら時間を稼ぎたいところです。

 残念ながら私の生命力はすでに後半であり、AIを作る側には回れそうもありません。せめて使う側になり、使われる側にならないことを祈るばかりです。愚かな想像力をフル活用して、機械にはできないであろう分野の開拓を常に考えていかなくてはなりません。

 論理的思考力は今後の人生には欠かせないものではありますが、規則性や法則性のあるもの、筋道の通っているものというのは実は機械的な思考であり、AIが最も得意とするものです。そこで逆に感性による思考や行動というものが今後ますます注目されることになるのかもしれません。不確実で偶然性の多い作品を作ることが今後当面の人間の能力を生かす方法となるのです。

速読速解

 ある方から現代人に求められる能力として、ある程度の分量がある文章を一度だけ読み、その要旨をつかむ力が肝要との話を聞きました。確かにそういう局面は多く、それで何か大切な決定がなされることもあります。

 速読速解、もしくは即解とでもいうべき能力を涵養するためにはどうすればよいのか。当面の私の課題はこれを考えることです。

ファーストの危険性

 アメリカ大統領の頻発するファースト主義はいまや世界的な潮流と言ってもよいものになりました。自分たちを大切にするというと聞こえがよいのですが、セカンド以下は切り捨ててもよいという裏の主張がぴったりと張りついています。
 こういう考え方はあらゆる局面において多様化している現代社会には向きません。多様性はいまや存在条件の中核であり、これを拒否することは衰退の危険性も飲み込むことに他なりません。
 人々の不安心理につけこんでファースト主義を振りかざすリーダーを憎みます。どうせならもっと分かりやすく、自分が一番、自分が良ければいいと思っていると言っていただきたいと願います。

乗換駅文化

 個性に乏しい街並みということを考えたことがありますが、細かく見るとやはりバリエーションは感じられます。特に古くから人が集まって来た町にはそれなりの雰囲気があります。

 自由が丘や溝の口、下北沢、明大前など複数路線が交差する乗換駅には特にその傾向が強く見られます。乗換駅文化ともいうべき何かがあるような気がします。

 駅が先か街が先かという疑問はいつも心にかかっています。恐らくその両方の相乗効果なのでしょう。

要するに

 話の要約をさせていると読解力の個人差が見えてくることがあります。要するに何が言いたいのかを聞きたいのですが、話の詳細にこだわりすぎてその主旨がつかめない生徒がいます。教科書に書いてあること、先生の言ったことはすべて覚えなくてはならないという思い込みがそうさせているようです。

 それでも過去に比べれば生徒の考え方は変わってきました。詳細はあとでネットでも検索すればいいという風に考えるようになってきたのです。実際にはそこまですることはなく、結局理解できぬままに過ごすことが多いのですが。いずれにしても全文章を暗記するということを目指す生徒は以前に比べて減りました。それでもやはり「要を得る」能力をのばさなくてはならない生徒は一定数います。

 要約力が低く、なおかつ学習意欲が高い生徒は授業後に必ず質問することがあります。授業中に書き取ることができなかったのでもう一度話してほしいというのです。そして、それが脇道にそれた内容であることが多いのです。何が意見で、そのための具体例や分析にあたる部分はどこなのかという話の構造を見抜く力をつけさせることは、そういう生徒諸君にとっては不可欠です。

 私はいまそういう生徒への対策として、要約課題の自主提出を求めています。また、自分自身の意見を書かせたり、人の意見のメモを取る練習もさせてみたいと思っています。要するにこの人は何が言いたいのか。それを端的にまとめる力は国語教育の中核にあるべきものでしょうから。

秋の雲


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 ひたち野うしく駅のまもなく夕焼けの景です。雲の様はさすがに秋の趣になっています。五時を知らせるゆうやけこやけのメロディーに合わせて飛ぶのはカラスではなくムクドリの大群です。久しぶりにゆったりとした気分です。

会話力の教育

 聞き上手になることを教えることを考えています。コミュニケーションを円滑に行うためには、相手の話をよく聞くことが求められます。ただ正確に聞き取るだけではなく、相手からどれだけ情報を引き出せるかが大切です。アクティブ・リスナーとでもいうのでしょうか。

 そうなるためにどうすればよいのか。私たちはそのスタイルを直接教えてもらうことはありませんでした。この手のスキルは自ら勝ち取るものであって、ことさら学習するものではないと考えられてきたのです。

 しかし、コミュニケーションが重要視される時代において、少しでもそれに資する能力は学校でも教えていかなくてはならないでしょう。そしてそのための指導法の蓄積も必要です。今後、国語教師は会話力のトレーナーとしての側面が重要視されることになるというのが私の予測です。