はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

チョーク アンド トーク

 アクティブラーニングが推奨されるようになってから、教員が一方的に話し続ける授業の様をチョークアンドトークと言って揶揄する傾向にあります。私としてはそれでもアクティブラーニングは可能であり、要は学習者の内的動機をどれだけ引きだせるかにあると思うのですが、一斉授業への信頼度が落ちているのが現状なのです。

 さて、昨日発症した私の風邪は喉に症状が集中しており、発熱や鼻水がない代わりに喉が痛み声がほとんど出ません。そこで今日の授業をどうするか。いっそのこと今日は完全なチョークアンドトークにしようと考えています。正確にはトークはできないのでチョークアンドチョークですが。

 体調管理ができなかったことは不徳の致すところです。このようなことがないようにせねばなりません。

年齢意識の伸び縮み

 同窓会の知らせ等が来ると自分の歳を意識することがあります。自分の考える自分の年齢と実際の年齢との意識や実態の差を発見もしくは再確認してしまうのです。

 職場ではほとんどが自分より若い世代の人ばかりなので、そういう人たちに囲まれていると世代なりのふるまいとか雰囲気といったようなものを忘れてしまうのです。

 翁さびをする理由はありません。自分のスタイルを貫けば良いのです。でも一方で同年代の人たちはどういう状況にあるのかということがとても気になっているのも事実なのです。そのたびに年齢に対する意識は伸縮して様々な感慨に陥るのです。

勤労への感謝

 勤労感謝の日の起源は新嘗祭にあったと考えられています。新嘗祭は古代に始められた収穫祭の一つで天皇が五穀豊穣に感謝し、その実りを神とともに共食する神事のようですが、詳細は分かりません。天皇の代替わりがあると大嘗祭という名のもと儀式の規模が大きくなります。悠紀(ゆき)・主基(すき)の殿舎が造られ新天皇の秘儀が行われます。今上天皇即位後皇居内で行われた即位の礼については、しばらくして公開されたものを見に行きました。あれからもう30年も経ったことになります。

 さて、私にとっての勤労の感謝はもちろん生業として糧をいただいていることがあります。最近は定期的な収入を得ることそのものが困難な状況にある中、毎月のサラリーをいただけていること自体が貴重と感じております。しかし、それ以上に大切なのは仕事をしている時間は少なくとも誰かのために何かをしていることを実感できることではないかと感じています。その中には多分に自己満足が含まれていますが、それでも何か他人の人生に関わっているという実感が、実は自分のためにも大切なのです。それがなければ自分が一体何者なのか、なんのために生きているのかが分からなくなり、余計なことを考え出してしまう気がするのです。

 勤労ということが人間にとって大切なのはそういう意味もあるのではないしょうか。その意味で働くことを阻害されている人が社会に多く存在することは、社会全体としてもよいことではありません。危険なことといえます。多くの人が勤労への感謝を実感できる社会を目指さなくてはならないと思うのです。

協調性

 国際的な学力調査で日本人の協調性の高さが客観的に測定されたとのニュースが報道されています。調査対象国の中で2番目だったようです。子どもの頃から集団生活を円滑に送ることを教育されている日本人にとってこのような結果が出るのは当然なのでしょう。

 他人との協調はこれから求められるスキルの一つです。難問解決のためには集団としての知や力を結集することが不可欠です。一方で他に合わせることのみならば新しいものの考え方が阻害され、イノベーションが起きにくくなってしまいます。

 そのバランスを図ることが我々の課題なのです。

こじつける力

 語弊を恐れずに言えば知らなくても切りぬける力を身につけさせるのが国語科の課題なのかもしれません。まず知識を蓄えてそれから考察すると言うのがこれまでの学習方法でした。その価値は変わらず重要だと思います。しかし、現実には知識不足の局面の方が遥かに多い。そういう時でも何とかしてしまうための言葉の能力こそ大事な国語力なのです。

 無知の局面で何かを知ろうとする時に私たちは何をするのでしょうか。恐らくそれ以前の経験と照合して何らかの共通点を見いだそうとし、それがない場合は推測したり、見方を変えたりします。その過程を国語の授業の中で体験させ、言語化可視化して示すことが必要なのでしょう。

 場合によってはこじつけともなりかねない思考方法は、決して非難されるものではなく、大切な思考過程の一つだと思うのです。