はてなの毎日

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映画 レ・ミゼラブル

 話題の映画「レ・ミゼラブル」を観てきました。ミュージカルの世界をそのまま映像化した作品であり、物語はほぼ全編歌によって進行します。映画俳優も歌を猛特訓したとかでなかなかの歌唱力でした。上演史の長い作品だけあってかなりの完成度です。フランスの近代萌芽期の混沌や人心の混乱が見事に映像化されていました。受刑者の苦役のシーンや、革命のバリケード、そして例の下水道のシーンなど映画ならではの影像もなかなかの見ものでした。

 この作品の背景にある信仰については日本人にも理解できるものではありますが、やはり根底において何か違和感があることに気づきました。ジャン・バルジャンにしてもジャベールにしても信仰をその根本においている点においては同じで、信仰のためには自己犠牲も問わないという姿勢を貫きます。その対象が愛であるか正義であるかの違いはあるにしても一本筋の通った原理があり、それに基づいて行動している。だから、単純に善悪を決めることはできない。

 信仰の対象である神は目に見えない存在です。多くの日本人は(すくなくともこの映画を見た私は)バルジャンの改心の理由は神父の慈愛の精神と考えるでしょう。命の恩人の存在が彼を変えたと。しかし、よく考えれば分かるように、その神父の行動そのものが神の代行であり、信仰の実践なのですから、本来は信仰そのものが改心を促し、その後の行動の規範になっているといえるのです。つまり、行動の原点は人ではなく信仰にある。その点が日本の伝統的な考え方とは少々違う気がします。

 忠臣蔵赤穂浪士は亡き主君の恥辱を雪ぐために命を落とします。見えない神ではなく現実世界に存在していた人間のために闘いました。そして惜しげもなく命を捧げてしまいます。見えない神に対する信仰というわけではないでしょう。人と人とのつながりを極端に重視する日本の風土と、人事を超えた神への信仰を重視するキリスト教文化との違いをこの作品は改めて提示してくれたような気がします。

 理屈っぽくなりましたが、作品としての完成度、テーマ性といった点から見てこの映画の価値は極めて高いと思います。