はてなの毎日

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完了と過去

 文語には「つ」「ぬ」「たり」「り」といった完了の助動詞と「き」「けり」という過去の助動詞とがあります。完了の助動詞は「・・・テシマウ」「・・・テシマッタ」と訳したり、「・・・テイル」「・・・テイタ」と訳し、時には「・・・タ」と訳します。ところが現在はいわゆる完了の助動詞なるものはなく、これらの相当する現代語が「た(だ)」に集約されてしまったと考えられています。どうしてこのようなことがおきたのか、国語学の本を読めばわかるのでしょうが、私は個人的にこの問題にさまざまな興味を感じています。
 現代語の「た(だ)」は古語の「たり」の変化したものであろうことは容易に想像がつきます。ということは、古語の過去の助動詞は消滅し、完了の助動詞が生き残ったということになります。これはどういうことでしょうか。
 古典を教えていて、もっとも生徒が混乱することの一つが時制の問題です。過去のことが話題の文章でも「けり」が使われないことも多く、さらに完了の助動詞で表したり、「・・・に・けり」のような完了+過去の連結も頻繁に出てきます。高校生は同時に英語の時制も勉強していますので、英文法の過去と過去完了のちがいなどを古文に当てはめようとしますが、これは別の概念なので必ずしも対応しません。そもそも日本語には「過去」という概念があったのだろうかと思うのです。動作の終了の瞬間を示すものが完了とすれば、終了してからしばらく時間が経過したのが過去であり。あくまである動作の終了が基準のような気がするのです。つまり古典のいわゆる過去の助動詞は、実は完了の助動詞の一部ではないかということです。
 つまり、現在に対する別世界の過去があるというのではなく、時間は連続しているというよりは並立しており、今も昔も同じレベルで語ることが日本語の特徴ではないかと考えるのです。「今は昔」という不思議な表現も、現在と過去が対立するものではないと考えれば理解しやすくなります。
 すると、本来日本語には現在に対する過去の意識は希薄であり、それが「き」「けり」という時間の経った完了の意味の助動詞が不要になった原因ではないかと考えるのです。
 現代語では「いま渋谷に着いた」(完了)も「昨日渋谷に行った」(過去)も同じ「た」で表します。それで全然困りません。英語が区別するのに日本語がしないのはおかしいという考えがありますが、それこそおかしい。異なる時間の概念を持っている言語にはそれにふさわしい表現があり、それが時代とともに変化し、洗練されていると考えるほうがいいのではないでしょうか。