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はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

字の上手さと学力

 ある方が字の上手い人は一流の学力を持っていないと語ったとか。これは明らかに間違いです。一流の定義や字の上手さを何で測るのかという根本的な問題は棚上げすることにしても一流の知識人のすべてが悪筆という訳ではないし、その逆でもありません。字の巧拙は別の要因になるものなのです。

 日本には文字の形自体に芸術性を感じる感性があります。主に直線から構成される漢字と複雑な曲線からなるかなは、様々なバリエーションを生みやすく、それが書道という実用と芸術の両面を持った文化事象を生み出してきたのです。

 学力向上のために字の美醜に教育の場で固執するなという意見もあります。私はある程度は拘るべきだと感じています。従前の文化的な側面を伝えるのは学校教育の使命の一つです。また、字が自分のためのみならず他人のための情報伝達手段であるということを伝えるためにも、読みやすい字を書かせるのは当然のことです。

変動幅

 このところの天候は日によって変動の差が激しく体調管理が大変です。今日は夏日になるとの予報です。その日ごとにもっとも相応しい服装ができればいいのですが、そうもいかず身体の方を合わせようとする日々です。これが上手くいかなくなると風邪をひくから厄介です。しばらくは悩み多い毎日になります。

検診結果

 定期検診の結果が帰って来ました。今回はかなり疲労していた時に受診したために覚悟していましたが意外なことに問題なしの回答です。よかったと思う反面、測定しきれない何かがあるのではと疑心暗鬼の思いでもあります。

 どうもいわゆる更年期(というものがあるとして)が終わったようで、老化への大きな脱皮が一段落ついたのかもしれません。これからはとにかく身体に適度な刺激を与え続けて衰える速度を限りなく遅くすることに努めます。

 まだやらなくてはならないことがたくさんあります。それにはまず体力、健康ですから。

直接選挙

 主要国の大統領選挙が相次いでいます。アメリカ合衆国、フランスそして今日は韓国でも選挙があります。一国のリーダーを有権者が直接選ぶ制度は我が国にはなく、一種の羨望を感じます。ただ、アメリカ大統領のように制度上の問題や、一般国民が必ずしも正しい判断ができるのかという疑問も同時に感じさせてくれました。

 アメリカでもフランスでも一部の有権者に選びたくてもふさわしい人物がいないという声が報道されました。一人の候補を選ぶということは様々な要素のうちの大半を切り捨て、自分の思いに近い人物を選ぶことになります。よく考えてみればこれは結構な賭けであり、危うさを感じるものです。

 もっとも日本のような議院内閣制に慣れているからこそ、こういう風に思うのかもしれません。首相公選制なるものが仮にできたとしたら、私はどうやって代表を選ぶのか、選ぶことができるのだろうかと考えています。

弱味

 誰にでも弱味があるものです。私などは弱味ばかりで、方々がほつれた布袋のようなものです。この歳になるとこぼれてゆくものを防ぐすべすらありません。
 昔は格好よくありたいとばかり考えていました。そのためにさまざまな無理もこなしていました。最近は格好よりもやるべきことができたことを素直に喜ぶことにしました。
 前よりできることの種類は増えた一方で、やり遂げるのに苦労するようになりました。身体の衰えは考える力にも及ぶことを実感しています。
 せめていまできることを誰かに伝えることを目標にしたいと思います。

教科書に載っている古典文学(1)児のそらね

 自分の勉強もかねて教科書に掲載されている古典文学の現代語訳を時々書くようにします。今回は今教えている宇治拾遺物語の「児(ちご)のそらね」です。ここでいう児とは貴族や武家の子どもが社会勉強の一環として寺院に預けられている時の名称のようです。先輩の僧たちが児に対して敬語を使うのはそのためだと考えられています。子どもなりに配慮してはみたものの、やせ我慢も限界がありかわいらしくぼろを出してしまうというオチは現代人にも注釈なしで理解できます。

 授業ではここまで崩してはいけないという限界を設定しますが、このブログではあえてそこを超えてみます。つまり、これでは満点は取れない超訳(昔そういう翻訳本が売れました)でお伝えします。

 ブログをお読みの皆さんには中高生の古典の授業を思い出していただければと思います。

 

 これももう昔のことになるが、比叡山に見習いの児がいたとか。ある日、その寺の僧侶たちが宵の手持ち無沙汰の慰みとして、「さあ、ぼたもちを作ろう」と言ったのを、この児はうれしく思って聞いた。とはいっても、出来上がるのを待って寝ないでいるのもよくないだろうと思って、僧坊の片隅に寄って寝たふりをして、出来上がるのを待っていたが、しばらくすると、すっかり出来上がった様子で、僧たちが集まって騒ぎあっているのが聞こえてきた。

 この児は、きっと起こしてくれるだろうと、待っていたが、その時ある僧が、

あのよろしいですか、起きてくださいませ」

と言うのを、嬉しく思ったが、すぐに一度で返事するのも待っていたのかと考えられてもいやだと思って、もう一声呼ばれてから答えようと我慢をして寝ているふりをしていると、

「おい、起こして差し上げるな。幼いこの方は寝入っておられるのだ」

と言う声がしたので、ああ困ったと思って、もう一回起こしてくれと思いながら寝たふりをしたまま聞いていると、むしゃむしゃと、ひたすら食べ続ける音がしたので、どうしようもなくて、かなり経ったあとで、

「はいっ」

と答えたので、僧たちは爆笑したのであった。

 

 有名な話ですが、私の中で解決できていないことがいくつかあります。まず児が寝たふりをしている場所と、僧たちがぼたもちを作っているところの位置関係です。私は大きな僧坊で数人の僧侶とこの児が共同生活をしていたと考えているのですが、自信がありません。もしそうならば極めて近いところでぼたもちが作られていたわけですから、児のがまんがならないのも理解できます。

 もう一つは僧が児の狸寝入りを見抜いていたのかどうかです。もし、見抜いた上の言動ならば児子へのからかいが背景にあることになります。私としてはその方が面白い話になると思うのです。児は僧侶の世界では現代のわれわれには信じがたい役割を演じたようですが、この話の児は身分違いの扱いをされていることからして、僧たちには手の届かぬ人の子息と考えるのですが。

 古典作品は情報不足のため帰っていろいろな解釈が生じるところが面白くもあります。

 

まもなく連休も

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 まもなく連休も終わります。とりあえず、静養と気分転換はできたのでやり残した仕事の解決とこれからの授業の準備をやりたいと考えています。
 とりあえず、元気があれば何でもできる、という誰かの言葉を信じてみたいと思います。