はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

豊かさとは

 精神的な充足感こそ豊かさの源であるという趣旨の文章を読ませた後、あなた自身の考える豊かさについて自由に書けという作文を課しました。実はこの課題の目的は段落ごとの最初の接続詞を指定し、文章の型を教えることにありました。どのように書いても論理展開が出来ていればよいと指示を出しました。

 先に読んだ文章の内容から豊かさを精神面に求める生徒が大半になることが予想されました。バイアスをかけた訳ですから。ところが、豊かさとは経済的な充実にあると答える生徒が大半を占めたのです。

 指定した文章型に、逆接の接続詞から始める段落を作れというのがありました。想定できる自説への反論を挙げ、それを否定することで論調を補強するという部分です。多くの生徒が、精神的な豊かさをいくら論じても、それは物質的な充実の上に立つものだと言うのです。

 かなり短い時間で書かせた作文はかえってその本音を引き出せたのかもしれません。豊かさを金銭で測ることは、現代の私たちの価値観を反映したものに相違ありません。それをどうこうすることはできません。私としては金で買えない豊かさを感じるきっかけを作る、あるいは演出していかなくてはならないと感じています。

終わらない

 いろいろな仕事が終わらないまま滞っています。私はあまり計画通りにことを進めるのが得意でないようで、大きな悩みでもあります。出来ることと出来ないことを切り分けて場合によっては適切な業務分担を依頼することが今の私に求められていることなのでしょう。不思議なことにデスクを離れている時にはそのように判じられるのですが、その場になると見事に思考停止に陥るのです。これを打破することが今の私の大課題なのです。

改竄

 政治家による文書改竄が一面記事になっています。場合によっては内閣が倒れる可能性もあり、次なるリーダーを模索する声も出始めました。

 あったことをなかったことにするというこの行いは、我々が過去の事実を文字や映像でしか知り得ないことを悪用する行為です。私たちが過去と呼んでいるもの、歴史というものの大半は記号化されたものです。記号化するに当たりどのような操作が加えられるのか。そこにどんな作為が織り込まれているのか。それを判断する重要性を改めて痛感するのです。

 政治家は苦しい立場に陥ると記憶にないとのコメントを繰り返すことがあります。記憶にないとは、過去の事実を認めたくないという意味と近いのかもしれません。もっと積極的な現実拒否の方法が改竄なのでしょう。

ネットニュース・リテラシー

 私がもっとも頻繁に使うアプリがニュースを集めて見せてくれるものです。世の中の情勢を手っ取り早く見るのにいいと思って見はじめました。ところがちょっとおせっかいなことに、一度閲覧した記事に関連するものをアプリが勝手に集めてくるのです。世情そのものではなく、自分の興味関心に合うものが知らないうちに選択されているのです。万年筆の記事を読んだらその後、これでもかという万年筆の記事が並び、猫の動画をみたら様々な猫達が画面を占領してしまいました。

 ニュース記事もかなり偏向していることに気づきました。とある国の欠点ばかりをあげつらい、自国賛美を続けるもの。素晴らしいアイデアがあると言いたげなタイトルなのに、そのアイディアが最後まで読み取れないもの。他人の記事に簡単なコメントしただけでニュースだと自称するものなど、私のブログとほぼ同レベルのおよそニュースとは言えないものが溢れています。

 かつてはそれらにいちいち感心し、驚き、怒り、嘲笑をしていましたが、最近はニュースとしての質をなんとなく判断できるようになってきました。ネットニュース・リテラシーなるものが身についてきたと考えるのは思い込みでしょうか。世の中は複雑でとらえどころがない。それを簡単にいいのけてしまっている記事ほど疑わしい、ということなのかもしれません。私はもはやニュースとしてではなく一種の文芸としてネットニュースを楽しんでいます。

補うもの

 ある研究成果によるとヒトの学習を司る脳細胞は13歳以降は急減するらしいです。もしそうならば中学生からの学習は条件が悪化する中で行われることになります。幼児教育の大切さが考えられます。

 しかし、経験的には小学生時代にはあまり恵まれた学習環境になかったのに、中学生や高校生になってから、あるいはそれ以降に学習成果を上げたという例をいくつも聞きます。脳細胞の数だけでは解決しないのでしょう。それを補うものがあるのです。

 経験がその一つであることは確かです。問題解決をパターン化して類型の中で解決を図ります。答えを考え出すことができなくても、近似値を示すことができるのです。頭が衰えた分を、身体の動きで補うこともあります。繰り返される身体の動きの中に、一定の意味を込めることができるのは大人の技とでもいうべきものです。

 減ってゆく脳細胞の中で出来ることは何か。そうした条件下で出来る教育は何かを考えていかなくてはならないでしょう。

7年後

 震災から7年を経過しました。つい最近のことのようにに思えることもあり、かなり時間が経ったように思うこともあります。震災時の驚きとその後の混乱はいまでも印象に残っていますが、当時のブログを読み直してみるとやはり忘れていることもたくさんあります。強烈な出来事でさえも時間の経過とともに内容が変質し、忘却の彼方に行ってしまうものもあります。

 震災後に備えた非常用のミネラルウォーターがそろそろ期限を迎えています。当時は定期的に買い替えてつもりだったのですが、それもできていません。食料の備蓄もほとんどない。72時間は自給自足する備えをというのが定説ですが、それを知っていてもできていません。また、我が家の場合、部屋に置かれたタンスや本棚が恐らく震災時には倒壊して身動きが取れなくなりそうです。震災の教訓が全く生かされていないのが現状なのです。

 震災のあった3月11日は少なくとも自分にこうした反省を促す日にはなっています。あとはやるだけなのです。いつ来るかわからないがいつかは来る大地震の備えをするかどうかは自分にしか決められません。

授業中心主義

 日本の教員の仕事はやるべき範囲が広すぎます。自分の専門とする教科の指導に加えて、生徒の生活面を指導すること、学校運営上の事務的な仕事、委員会活動の指導、放課後の部活動の指導、保護者への対応などがあります。そのほかにも様々な単発的な仕事があります。それを同時にこなさなくてはならないのです。これではすべてが薄くなってしまいます。

 現在教育の世界では大きな改革がなされています。特に授業の質的改革は国レベルで進められているプロジェクトです。そしてこれを成功させるためには教員の学習指導方法の改革が欠かせません。綿密な授業研究が必要なのです。そのためには授業に専念できる環境を作らなくてはならない。

 ICT導入によって個人の教員の指導力を補うという意見もあります。完成されたプログラムがすでに用意されていて、それをやらせればいいのだという意見です。教員はプログラムのスイッチを入れたり消したりするだけの作業をすればいいということになります。極端な話のようですが、教員はティーチャーからファシリテーターになると述べている人の話の中にはこうした未来が見え隠れしています。

 現場にいる教員としてこの考え方には疑問を感じます。どんなに優れた教育機器があったとしても、そこに対面的な場面がなければ教育効果は極めて限定的です。よくも悪しくも私たちは対面している人の影響を受けるわけであり、それが社会の実態です。スイッチを入れるだけの「教員」はもはや生徒にとっては透明に近い存在でしょう。

 迂路にはまり込みましたが、私は教員は教科指導に専念すべきだと思っています。もちろん、実際には教育的効果をあげるために生徒の生活を改善したり、悩みを聞いたりする必要もあります。しかし、そうした生活面精神面の指導を専門とする部署があればより効果的な指導ができる。また事務的な面も多忙のあまりに効率化できていない点を踏まえて専門家にもっと委託していい。教育事務職はもっと評価されていい職業です。部活動などは地域のクラブとの連携を深めて教員の仕事からは外すべきだと考えています。もちろん教員自体がクラブ活動に入りたい場合はそれを認めればよい。放課後に片手間にやるのはやめた方がいいと思っています。

 とはいえ、今の職業体系では私は教科指導だけに専念しますとはなかなか言えないしできない。せめてそのほかの仕事を効率化すること、簡素にすること、そして若い教員仕事を少しだけ肩代わりして彼らの授業研究の時間を確保させること…といったことが年配教員の私ができるささやかな改革です。

 非常に中途半端ながら来年度は授業中心主義で臨みたいと今のところは考えています。