古典に学ぶ
現代に比べると古典文学が生まれた時代の人々の社会は単純といえます。単純というのは稚拙とか安易という意味ではないことは周知の通りです。社会保障システムのない状況で生きるのは想像を絶する厳しさがあるでしょう。人権という概念がないのも私たちには耐えがたい。
それでも単純な社会を生きていたが故に表れた人の生き方が描かれる古典文学を読むことは意味があります。生きるために人はどのように振る舞うのか、他人とどのように関わるのかを考えるきっかけになるのです。
中高の古典教育においてもこうした問題を取り扱う時間を増やしていかなくてはならないと常々考えています。古典を暗号解読ののように読み、設問に答える技の習得のみに特化した教育は深い学習には繋がりにくい。大学入試レベルでも古典の内容を問う問題を増やしていただきたいと思うのです。
映像教育
ネット上での動画配信を利用して予備校講師の授業を受けるサービスが広がりつつあります。かつてはあくまで副次的な役割に過ぎなかったものが、いまでは完全に商品化され、講師がいない塾に通うというところもあります。質問を受ける役割の人員は配置されていますが、あくまで主体は画面の中の先生なのです。
こうした方法の危うさは教える方も教えられる方も、教育がデジタルメディアに丸ごと収まっているような錯覚を起こすことでしょう。実際にはこぼれているものがたくさんあるはずなのに、カメラとマイクがすべてを拾い、それが伝送されていると信じているようなのです。
学習は本と紙と筆記用具があればできるというのは実は正しくありません。大切なのは学ぶ意欲を持つことです。教師の役割はそれを適度に持たせることなのです。その配慮がなければいかなる名講義も奏効することはない。学校の役割はまさにここにあるのです。
いろいろな師に就くこと
伝統的な教育観の中に師承の学とか、秘伝という考え方があります。教育が大衆的な行動ではなかった時にはむしろ弟子は師を選び、師は自分の技能を伝えるに足る人物にのみ伝達をするというのが教育の理想だったのでしょう。今は機会の平等とか、教育の大衆化ビジネス化が進んでいるのでこういう考えはむしろ害悪のように扱われることがあります。
師を選ばないで学を始める才能こそが日本人の長所であるとは内田樹さんの文章によく書かれることです。確かに一人の先生に全人格的に心酔し、すべてを模倣し取もうとする行動は非常に効果的な学習実践であり、それが成功した時にはおのずと師を超えることも可能です。この方法は現代にも通用すると私は思います。
ただ、この関係には一種恋愛関係のような一対一の人間関係が背景にあります。他の師に就くことが裏切りであるかのような暗黙の了解が学習者に一定の枠なり枷なりをはめてしまいがちになります。
ただやはり、一人の指導者の意見に偏らず、複数の師に事えることは大切だと思うのです。宮本武蔵は我以外皆師というようなことを言ったそうですが、そこまでではなくても心酔する相手は何人かいた方がいいように思うのです。その際に冒頭で述べたニ君にまみえず的な遠慮がないようにしなくてはならないでしょう。
私は中等教育の現場にいるのでこのことを何らかの形で伝えなくてはならないと思っています。教育をカタログから選ぶような感覚で受けてはいけない、師のものをすべて吸収するような態度が大切だ。ただ、一人の師に縛られるのもよくない。自分がいいと思う師には積極的にアプローチして教えを仰ぐことができるようする、それが伝統的な教育観を現代に生かすことでないでしょうか。
言葉はあなたそのもの
学年末最後の授業ではいつもいう「ネタ」が言葉はあなたそのものだという話です。私たちは言葉で何かを伝え、言葉によって外界の現象を察知し認識します。その言葉の使用法の精度がその人の世界とのかかわりを決めてしまうという話です。
国語を勉強する意味を疑う生徒にはこの話をすることにしているのですが、どれだけ響いているのかは分かりません。それを伝えるのも言葉であり、受け取るのも言葉なのですから。
少なくともいえることは自分が中学生の頃に持っていた言葉の世界では見逃していたことを、今の自分は察知できているという感覚があるということです。また、使える言葉の数とか用法とか、その他もろもろの修辞法があれば違った結末になったはずのことが多数思い当たるということです。
国語を学ぶこと、言葉を学ぶことは、自分の在り方そのものに変化を与える直接のきっかけになっているということを生徒諸君に伝えることが私の役目なのです。