はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

未曾有の進路

 台風12号ジョンダリは列島を東に進むという大変珍しい進路をとるようです。既に今私がいる茨城県南部でも時折かなり強い風雨が吹き荒れています。

 これまでの経験が通用しないかもしれないというのが今回の台風の報道の中でしばしば聞かれます。比較的安全とされる東斜面の地域は集中豪雨に警戒する必要があります。そのほか台風に纏わる経験のいくつかが通用しないかもしれないというのです。

 今夏の異常気象は地球規模のものらしく、各地で異常高温や豪雨が起きています。それを人間の活動が要因とする説もあり、それが事実ならばこれからもこうした条件に付き合っていかなくてはならないことになります。

 未曾有とか未知とかそういう表現がもはや陳腐になりつつある。そこに不安を禁じ得ません。

台風の恐れ

 記録的な酷暑が続いていますが、その南の海上では台風が次々に発生しているようです。気象庁によると台風12号ジョンダリは28日ごろに関東に接近するようです。この日は仕事があるのでおとなしく過ぎてほしいというのが本音です。海水面が高い現状では台風も発生しやすく、さらにいつもと違う気圧配置のもとでその進路も予想外のものになる可能性があると言われています。今年は天災の年になっていますが、これ以上はもう勘弁してほしいです。

 

睡眠時間がなくても

 仮に睡眠時間を返上しても健康上の問題は起きず、健康年齢はある程度保たれるならば、その代わりに寿命が短くなってもいいと感じることがあります。ただ、誰の目にも明らかなようにこの希望には様々な自己矛盾が含まれています。

 短くても太く生きるということを夢見たときがありました。細く長く生きるという美学もありますが、憧れるのはやるべきことをやり遂げてからこの世を去りたいという一事です。しかし、実際にはやるべきことを中途半端に終わらせてダラダラとした毎日を送っているのです。

 このところ色々と行き詰まって来ており、将来がまるで消化試合のように感じられることがあります。そこに刺激とかときめきとかいうものはなく、成績と効率ばかりが求められている現実に立ち向かうために程よく立ち回ることばかりを考えます。

 やはり強い意志をもって立ち向かえる人になりたい。睡眠時間を削ってもいい。などと威勢良く思うのですが、やはり睡魔には勝てず、小人なる己を痛感するばかりです。

間隔をおいた風景

 私達教員は夏に合宿の引率をすることが多くあります。所属している部署にもよるのですが、だいたい合宿の場所は決まっていて定期的にそしてほぼ同じ時期に同じ場所を訪れることになります。すると不思議なことに自分の年齢は上がっていくのに引率している生徒はほぼ同じ歳、ほとんど変わらない風景は実は少しずつ変化している。宿のご主人や女将さんや従業員の方々も少しずつ年齢に応じた姿になっていらっしゃる。当たり前ではあるのですがなんとも不思議な感覚に包まれるのです。

 アルバムをめくりながら、そのアルバムの中に住んでもいるという二重の括弧づきの世界というか、コマ送りの画像の中に取り込まれた間隔というのか。そういう思いを持つのです。

 でも、これは考えてみればどのような世界にでもあることで私達の日常は常にコマ送りの現実の中にある。その感覚の長短によってそれを意識するか否かの違いに過ぎないのかもしれません。 教員の場合、合宿引率などの行事を通してそのことを端的に感じる機会があるということにすぎないのかもしれません。

作者の意図

 国語が苦手な小学生の母親からの相談で次のような話を聞いたことがあります。国語の問題で「とはどういうことですか」という形の設問に対して、たいていの場合そのこどもは自分の考えを述べてしまい結果的に誤答になってしまうというのです。国語の設問は結果的には出題者が何を聞きたいのかを把握することが大切です。現状の国語の問題は論理的な読解力を試すものであり、個人の意見を尋ねることはめったにありません。

 「作者はどのように考えていますか」とか「本文の内容に沿って説明しなさい」とかいう設問も、この文章ではどのように述べたれているのかを分かりやすくまとめよということを求めるものであり、解答者のユニークな意見を求めているわけではありません。そのあたりを理解していない小学生は意外にも多いようです。

 中学に入っても同じように考えている生徒が時々います。自分の考えで答える生徒はさすがに減りますが、世間一般の常識という前提を設けて解答を作る人は一定数います。聞かれているのはあくまで本文に書かれていることであり、それを正確にたどることが必要です。大人にも国語はセンスがなくてはできないとか、文才が必要なのだとかいう人はいますが、これも国語という教科の目指す本質を取り違えているようです。

 国語はあくまで論理展開を正確にできることを、そしてそれを受け取れることを目指した科目です。その意味では極めて単純な科目といえます。作者(実は出題者)の展開する世界を正確につかむ力が国語という教科の力の尺度の一つになっています。