はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

すべては変わる

 この世に変わらないものはない。その言葉の重みは実はなかなか分かりません。こう書きながらも私自身もどこかで不変のものがあると信じて、それに従って生きています。

 諸行無常は仏教的な概念ではありますが、科学の視点でも同じことがいわれています。数学で定義する数々の定理は人がものを考える際に見出した人工的な標識なのかもしれません。変わらないものの存在を認めたいという願望ともいえます。

 ただ、だからと言ってあきらめや失望だけでは何も始まらない。移り変わる世界にいるからこそ見えてくるものも必ずある。私たちは変わりながらも確かな人生を生きているのです。

時間軸往還

 時空の接点が変わっていたらと思うことがあります。今この場所にいる偶然を思うと不思議な気持ちになるのです。

 ある場所に訪れる時間がもしずれていたらいろいろなことが変化することになるはず。そんなSF映画のようなことを時々考えます。もちろんそのようなことがないのが人生であり、時間軸だけはいかんともしがたいからこそ、生きる意味があるとも言えるのです。それでも常に時間軸を往還する幻想を捨てることができません。

 諸行無常の現実に何か不変の軸を見出したいという儚い願望がかような妄想を抱かせるのでしょう。

映画館の役割

 映画館で映画を観ることの意味は作者が作った時間の流れを楽しむことができるからなのでしょう。時間を買うために映画館に行っている気がします。

 家庭でもDVDやネットからのオンデマンドで映画はいくらでも観られます。劇場公開からメディアになるまでの時間も短くなって行く中で、映画館は作品の世界観を占有する空間を確保するために行く場所になっています。

 家庭でビデオを観ると日常生活の様々な要素が気になります。来客や電話による中断は興ざめです。そして時間短縮のために早送りしてみたり、聞き逃した台詞を巻き戻したりすることもあります。これは作品の世界観を破壊してしまう行為です。

 作品世界に身をゆだねる空間が自宅にない私にとっては映画館は特別な空間なのです。

発動させる力

 教員の仕事の大部分を占めるのが学びたくなる気持ちを作ることだと感じています。偉大な師匠はそこに近づくだけで学ばなくてはならないという気持ちを起こさせます。それが幻想でも思い込みでも構わない。とにかく学ぶ気持ちを起こさせたらそれは立派な教師である証です。

 私の職業は教員なのですが、残念ながらこの方面の能力は劣っています。勉強させるために宿題を出したり、大声を出して叱ったり、なだめたりといったことしかできません。学びの意志を発動させることができる人を私は尊敬します。

 私自身にとっては小学校、中学校、高校、そして大学と自分に学びのきっかけを与えてくれた先生がいらっしゃいました。決してすべてができる方々ではなかったと今から考えると思うのですが、少なくとも私にとっては学習動機を引き出してくださった方でした。

 勉強の方法を教えることはもちろん大切ですが、何よりも優るのは学習を発動させる力です。それはどこから来るのか。どうしたらそうした教員になれるのか。まもなくこの職にいられる時期もなくなりつつある今でも私はまだそれが分かっていないのです。

価値観は時の支配を

 何が大切なのか、何が価値があるのかという問題については絶対的な基準はありません。そしてその秤は時代によって変わってしまう。大切だ貴重だと思うものは時代によって変わります。だから、周囲の声に左右されることなく自分の価値観を大切にすることが大切だと考えます。

 詩を書いたり、創作的な文章を読んだりすることはある時代においては何よりも優先して大切なことでした。それが有閑階級の余技のように考えられたことも、実用性のない優先順位の低いものと考えられたこともあります。最近の文学はどうも価値を低くみられているようで、詩歌をつくる人も小説を読む人も少なくなってしまいました。しかし、だからと言って現代には創作行為や文学作品を鑑賞することに価値がなくなったわけではありません。社会的な風潮でそのように感じられるだけです。価値観は時の支配を受けてしまうのです。

 学校で文学作品を扱わなくなる事態が来ることが危惧されています。指導要領と入試改革の影響で授業で文学を扱うことが避けられることになる事態が発生しそうだからです。果たして現在の文学作品の授業が理想通りに行われているのかについては疑問があります。文章に傍線を引き、一つの解答を求めようとする設問では文学の深い読みはできません。

 でも、評価された作品を読む共通の読書体験は教科書教育のよさの一つです。ある作品の読書体験を共有していることで生み出される何かがあるのです。また、解答を急がず表現の奥にあるメッセージを個々が読み取り、それを確認し合うという時間は国語でしかできない貴重な体験であることは確かです。〇か×かの世界ではできないなにかを文学作品の読みを通して簡単に行うことができるのです。

 時代の価値観に即応することも大切かもしれませんが、もっと奥底にある人間に必要な能力を引き出すことはそれに勝ります。国語教育がその役割を見失わないようにせめて現場の教師は考えておく必要があります。

同じものを見ているのか

 私たちは同じものを目の前にしても同じように見えているのかは分かりません。むしろ見ていないと考えるべきなのかもしれません。

 同じように行動することを強要する場合、しばしばそれができない人がいることに気づきます。どうしてそんなこともできないのかと考えることもあります。ときには不機嫌になって叱責することもあります。

 でも、果たして同じように行動することは当たり前なのだろうか。誰でも当然のごとくできることなのだろうかと考え直してみることは大事なのです。実は自分と同じ世界を受容しているとは限らない。むしろ見ていないのかもしれないと疑うべきなのです。

 世界が誰にとっても同様にあるというのは楽観論に属することなのでしょう。面倒でも見えている世界をすり合わせ確認することが大切なのです。

真剣な世代

 このままでは終わりに近づくばかりだ。いまのやり方はおかしい。そんな言葉が随所から聞こえてきます。悲観論を越えて行動し始める若者は確実に増えつつあります。

 高度経済成長の恩恵を受け、バブル崩壊後も停滞を感じながらも衰退は実感してこなかった日本人も、最近はそれを確信的に予見する風潮が出てきています。様々な要素がどれもいままでとは異なる局面に入っていると実感できるからです。

 一部の心ある者はこの新たなフェーズへの対応を始めています。自らの付加価値を高めるために研鑽し、社会の現状を捉えることに心を砕いています。そしてそれは今後多難な時代を生き抜かなくてはならない若者層に多い。既得権を守ろうとする世代に対しては対抗意識を隠さなくなっています。

 改革は当事者によっておこります。若者の叫びを謙虚に受け止めたい。そしてできればそれを応援したいと思うのです。