はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

数字は主観的

 感染者の人数が毎日増えていく中で、数字の持つ意味がだんだん分からなくなっていっています。2は1の2倍ですが、ある程度の数字を超えるともう分からなくなる。子供の言葉でいう「いっぱい」の段階に入ってしまうのです。それは数字は客観性を保証するという常識を覆してしまう現象です。

岩手県でも感染

 今日岩手県でもコロナウイルス感染者が出たという報道があり、すべての都道府県で感染者が認定されたことになります。この後も増え続けることが予想されています。感染を防ぐ努力を続ける一方で、感染した人の心身のケアも大切になります。

 地方では感染者が特定されやすく、その結果一種の差別のような現象が起きやすいと聞きます。真偽を確かめたわけではないので噂に過ぎないのかもしれませんが、今回のような話題では噂話が広まりやすく、かつ当事者の人権侵害にもつながりかねません。罹患者は決して罪人ではありません。また不注意や自覚不足による感染とも限らないのです。そのことをもっと喧伝する必要があります。結局、その人の用心不足だと短絡してしまうと真相を見誤ることになりそうだからです。

 コロナウイルスは人々に苦難を与え続けていますが、あえて言うならその苦難を乗り越えるための方策を考える機会を与えられているのだともいえます。

集中力

 言い訳ではありませんが、最近集中力が落ちているのはやはり加齢と関係がありそうです。心身は相関しており、独立しているものではないということです。

 もちろん体力が大きければ精神力も強いという訳ではありません。これらは他人と比べても意味がありません。あくまで自分史の中の相対的な感覚です。

 ならば滅びるのを座して待てということになりますが、それは嫌です。心身の衰退を前提とした闘い方があるはずです。当面はこの気概で明日を生きることにします。

対面販売

 ものを売ることの意味を考え直すこの頃です。安いものを買うというならば通販でも十分です。その方が安いことも多い。

 ただし物を買うということは単に物品の入手ではないとも感じます。対面して物を買ったときに得られる満足感への評価がどこかに消えています。非効率という批判はあるでしょう。でも確かにそうした種類の充足感が存在するのは事実です。

 幸せそうにものを売る人から買いたくなります。買っているのはものだけではないのかもしれません。

教科書に載っている古典(5) 阿蘇の史、盗人にあひてのがるること(今昔物語集)

 昔の話だ。阿蘇某という史(4等官)がいた。身なりは小さいが、肝っ玉は恐ろしく座った人であった。

 彼の家は西の京にあったので、公務があって参内し、夜が更けて家に帰るときに、東の中の御門から出て、牛車に乗って東大宮通りを南に進めさせて行くときに、着ていた服を皆脱いで、片端からすべて畳んで車の茣蓙の下にきれいに畳んで、その上に畳を敷いて、この史は冠をつけ、足袋を掃き、あとは裸で車の中で座っていた。

 そして、二条大路を西に進めさせていくと。美福門のあたりを過ぎる時に、盗賊が脇から一斉に出てきた。牛車の轅(ながえ・牛とつなぐ部分)に取り付いて、牛飼いの童をうちすえると、童は牛を捨てて逃げてしまった。車の後ろには家来が2、3人いたが皆逃げてしまった。盗賊は近づいてきて牛車の簾を開けて中を見ると、裸で史が座っていたので、盗賊は「あきれたことだ。」と思って、「どうしたのだ」と問うので、史は「東大宮大路でこのような目にあったのだ。お前さんのお仲間が近寄ってきて、私の装束をみな召し上げられた。」と笏を持って、身分の高い人にものを申し上げるときのようにかしこまって答えたので、盗賊は笑ってそのまま行ってしまった。その後、史は、大声で牛飼いの童を呼ぶと、他のものもみな出てきた。それで家に帰りついたのだ。

 その後、妻にこのことを語ると、妻は「その盗賊にも負けない肝っ玉でいらっしゃる」と言って笑ったということだ。

 本当にとてもたくましい精神である。装束を全部脱いで隠しておいて、このように言う考えようは、まったく常人の思いつかないことだ。

 この史は非常に雄弁で機転の利く人物であったので、このように言ったのだと語り伝えているのだとか。

ダムはいいのか

 球磨川の水害をダムによる治水ができなかったからという意見があります。データを示されるとそうかもしれないとも思います。一方で中国の三峡ダムが変形しつつあるという報道に接するとダムのもたらす大災害を考えてしまいます。治水は大昔から人を悩ましてきた重要な問題です。蕩蕩と流れる水に我々のできることは限られていると痛感するのです。